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相反する感情や欲求が同時に存在し、複数の選択肢の中でどれを選択すべきか迷っている心の状態のことを葛藤と呼ぶ。

もともとは仏教用語でつる植物の「くず」と「ふじ」が複雑に絡み合う様子から、解決困難な心理状態を比喩的に表現している。

中には、「旅行先の候補がどれも魅力的で選べない♪」
などといったワクワクする葛藤もあるが、基本的には葛藤は不快だ。

「メリット」「デメリット」などをいくら整理しても解決することができないもどかしさ。
どちらを選んでも痛みを伴うというやるせなさ。
自分や大切な人が傷ついてしまうかなしさ。

葛藤を自分の内に抱えておくことが苦しくなると、何かの拍子に怒りという形で誰かにぶつけられることになる。

ぶつけられた方はたまったものじゃない。
攻撃には攻撃を、と衝突が起こるか、距離を置かれるかのどちらかが起こる。

怒りという形にならずとも、不快な感覚から逃れたくて、そこにあるどうしようもない現実に向き合うことをせずにどれかの選択肢を選んだりすると、やはり人と衝突が起こる。

自分が選ばなかった選択肢を持っている人がなんだか癪にさわるように見えたり、批判したくなったりするのだ。

自分の中になかったことにしているものを他者の中に見ると反応が起こる。

そして、その反応から、自分の中でホールドできなかった対立が、自分の外側で起こる。

相反する感情や欲求が自分の中にあると葛藤が起こり、自分の外にあると衝突が起こる。

自分の中に相反するものを持ち続けられるというのは成熟の証でもあるけれど、葛藤するのが良いかというとそうとも言えない。

ひとりで葛藤を抱え続けていると心もだが、からだが悲鳴をあげたりする。


葛藤は解決できない。
でも、心身を壊さない形で葛藤とともにあることはできる。

人との対話はその後押しになる。

誰かの心のスペースを借りると、これまでとは違った角度から、少し距離を置いてものごとを見つめられるようになる。
そして、不本意な現実を受け止めていくこれまでよりも少し大きな自分が育まれていく。

相反する感情や欲求、考えを持った人同士がお互いを知ることを橋渡しをしてくれるのも対話だ。

表面に表れている選択ではなく、その奥にある背景や想いを紐解いていくと、お互いが、お互いの視点から最善を尽くそうとしていることに気づく。
自分の中にも相手の心と重なる何かがあることに気づく。

そうしていたら、たとえそのときに手を取りあうことができないとしても、ひとりの人間として、その選択を尊重することができる。

もちろんそうなるには対話を重ねる必要がある。

対話とは、「分からない」とともにいるプロセスだ。

正しい・間違っているではなく、
賛成・反対でもなく、
味方か敵かでもなく
もっと知ろうとしてともにいる。

共感も大事だけれど、分かった気にならないことがもっと大事だ。


「分からない」も不快だ。

「分かった」にすぐ移りたくなる。

そこを、一歩留まって、「分からない」に居続ける。
分からないけど、一緒にいる。

そうしていたら、相手について、世界について、自分について、これまでとは違った景色が見えてくる。

葛藤か衝突か。
どちらかしかないと苦しい。

その二つのあいだにある対話という選択肢を持つことができたなら、
直面する現実は変わらずとも、自分や人とのつながりを深めながら
生きることができるのではないかと思う。

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