真の自己を生きると幻の課題はなくなるが、本質的な課題はなくならない
他者の期待や評価、比較に規定されない真の自己を生きることで、わたしたちは「生きている実感」もしくは「いのちを生きている実感」を深く感じることができる。
しかし、真の自己を生きると課題がなくなるかというとそうではない。
むしろ、より簡単には解決できない課題に向き合うことになる。
サイコシンセシス(統合心理学)の創始者であるロベルト・アサジョーリは、著書『サイコシンセシス』の中で、マスロー(マズロー:欲求段階説を唱えた心理学者)のこんな言葉を引用している。
幻の自分を生きているときにわたしたちが「課題」だと感じるものは、自分で生み出す幻想のようなものだ。
「相手に迷惑をかけているんじゃないか」
「あの人(あの人たち)に嫌われるんじゃないか」
「自分は価値がない人間だと思われるんじゃないか」
「フォロワーが増えないけど大丈夫だろうか…」
etc…
そもそも、自分の中に現れる感情の要因の根本は自分自身にあって、その責任は他者が負うものではない。
嫌われたとしても、価値がないと思われたとしても、あなたの存在はそれによって揺らぐものではない。
フォロワーの数によってあなたの価値は決まったりしない。
しかし、幻の自分を生きていると、人からの評価の中で認められることや居場所を獲得することが世界の全てになる。そうして、ときにこれらの課題が生存を揺るがすような力を持ってしまう。
自分の存在が他者からの評価や比較によって揺らぐものでなないと気づくことができると、自分が作り出した自己像を守ることは必要なくなり、自分が作り出していた幻の他者との会話ではなく、現実に向き合う他者との対話をすることができるようになる。
相手と直にコミュニケーションを交わし、感じていることを伝え合うことで、ともに新しい状況や関係を作っていく協働者となることができる。
とは言え、課題がなくなるわけではない。
人と異なる考えを持つことだってあるし、相手のことを理解できないと感じることもある。
今現実に起こっていることは何かを認識し、それに対して、現実的に必要な一歩を踏み出していくことができる。
それが、真の自己を生きるときに起こることだ。
真の自己を生きて向き合うことになる最も困難な課題の一つは実存的な課題だ。
社会が規定し、期待するものが自分ではないことは分かった。
ではわたしは、どのような存在なのか。
自分自身にとって本当に大切なものは分かった。
その上で、では実際に、どのように生きるか。
これらの課題(問い)に誰も答えを教えてはくれないし、
そもそも究極的な答えなどない。
答えのない問いを持って生きる。
それが、真の自己を生きるということだ。