235-236 あの日の香り

235. 正しさよりも美しさを

南の空には数本の飛行機雲がかかっている。今も西から東にツーっと一本の白い線が引かれていっている。パソコンを開け、いくつかの作業をしているうちに体が冷えてきて、半袖のティーシャツの上にパーカーを羽織った。心なしか、東の方から差す太陽の光がやわらかいものになっている。空の感じだけ見るともう秋のようだ。でもこれがオランダの夏。言葉の意味が更新されていく。そのうち、意味は消え、ただ体験だけがそこにあるものになるのかもしれない。

今週は1週間のうち2日間アムステルダムまで出かける予定があり、日本から来る知人たちに会う機会もある。普段とは違う、盛りだくさんの一週間になりそうだ。その中で静かな普段の暮らしと仕事を保っていきたいという思いもある。昨晩、日記に読点の話を書いた。今書いてみると、私が読点を打っているのは、息継ぎをするときであり間をおくときであるようにも思う。文章としては不自然だったり不必要だったりするけれど、言葉を書くこと、読むことの中に「間」をおいていきたいというのが根底にある大切にしたいもののようだ。お茶を飲むときに自然に呼吸が深くなるように、言葉を書くとき、読むときに、息つく間が自然ととられていくような。そう考えると、編集をするときに文章として整えるために読点を取っていくのは自分が本当にそこに込めたかったことを取り去ってしまうようにも思う。読点を取って文章を整えることは、接続詞を入れて文章構造を整えることに似ているかもしれない。今やりたいのはそれとは逆の方向だ。人が頭で読んで理解をしやすい物を書きたいわけではない。自分の感覚や息遣いをそのままに、ここに置いていきたいのだ。

目の前の書棚に並べてある「日本の名随筆」という本の中から『花』という一冊をとってランダムにページを開く。ざっと見るだけでも、読点の打ち方は様々だ。それでいいのだ、と安心する自分を可愛らしく思う。どんなに「我が道を行く」と思っても、読点の多さを気にして、本を開く自分がいる。それが今の自分だ。

今気にしていることがあるとすれば、それは「正しさ」ではなく、「美しさ」だ。美しさと言っても、何か決まった基準の中で測ることのできる美しさではなく、人間が持っている原初の感覚に触れたりそれを発動させたりするような美しさ。言葉に限らず、表現するものは飾らず自由に。そこに自然な美しさが滲み出てくるような生き方をしていければと思う。2019.7.22 Mon 8:57 den Haag

236. あの日の香り

中庭の木には、朝とは反対側から日が差し、影ができている。その向こうに、向かいの家の屋根に伸びる通気口のようなものがキラリと光り、別の家の通気口の上にはカモメが座っている。

今日は午後のセッションの前にオーガニックスーパーに買い物に出かけた。大通りから一本入ったところにある、いつも通っている道を歩く。通りに面した家の玄関の前には、それぞれ小さな庭のようなスペースがある。そこに咲く花を眺めながら、「そういえばジョギングはなかなか習慣にならないものの、こうして週に数日はスーパーまでに道を歩いている」と思った。

ゆっくり歩いて片道10分ほどの道のりなので大した距離ではないが、天気が悪い日を除いてこの道のりを面倒だと思ったことはない。通るたびにはじめて見る花が咲いていることに気づき、通るたびに一つ一つの家にある人の暮らしを思う。自転車を使えば同じく片道10分ほどでもっと大きなオーガニックスーパーに行けるし運動になるけれど、そうしないのはこうして歩きながら目に留まるものを味わうのが好きだからだろう。ジョギングをするときも、走り慣れていないからか、道の脇に咲く花に目がいかなくなってしまう。目的地に早く辿り着くことよりも、私はその道のりを味わうことの方が好きなのだと気づく。であれば、道に咲く花を見て、人の暮らしを感じることをしていれば良いのだ。結果として歩いている。

昨日、習慣になっていることとそうでないことについて考えたが、何か別の目的があるそのプロセスに含まれていることは気づけば続けているのだと、スーパーへ行く途中に気づいたのだった。スーパーからの帰り道、1機の飛行機が4本の細い線を空に引いていた。機体の真ん中についた大きな比翼、そして後ろについた水平比翼の左右それぞれから白い線が伸びる。伸びた線は2本になり、やがて1本になっていた。

オーガニックスーパーではクロレラを購入した。今は主にスーパーフードと呼ばれるものや果物・野菜を通じて栄養分を摂っているが、エネルギー不足だと感じるときがある。それがビタミンB1の不足によるものではないかと考えていた。ビタミンB1が不足すると糖質がうまくエネルギーにならないため疲れやすくなるという。鉄分が含まれるアサイーの粉やたんぱく質が豊富なスピルリナの粉と迷ったが、クロレラには容器に明確にビタミンB1の含有量が書いてあり、そこがウリなのだろうと考え今日はクロレラの粉を買うことにした。家に着いて早速クロレラの入った缶を開けると、そこには、深い深い、緑色の粉が入っていた。どうしても色彩で表現するなら緑だが、それは黒にも近い。墨のような緑。日本の色の名前で言うと、濡羽色(ぬればいろ)というのが近いだろうか。そしてこれまで摂ってきたどの粉とも違う、砂時計に入っていたら一瞬にして全ての砂が滑り落ちてしまうような細かい粒子。思わず息を飲み、魅入ってしまった。これを自然の恵みと呼ばずして何と呼ぶだろう。早速スプーン一杯をすくってコップに入れ、水を足した。砂のような粉がふわりと舞い、あっという間に水が緑に変わる。口に含むと、磯を走る風の味がした。

そういえば昨晩、ベッドで本を読み灯りにしていた蝋燭を吹き消した瞬間に、その香りが誕生日の思い出であることに気づいた。これまでも蝋燭を消したときに「この香りは結構好きだなあ」と思っていたけれど、その正体が何なのか分かっていなかった。それが昨晩突然、小さい頃の記憶と結びついた。年に1度だけ、ケーキの上に立てられた蝋燭を一人で吹き消すことのできる日。小学校の頃は誕生日会というものを自宅で開催する人もいたが、私は真夏の生まれなので、誕生日と言えば家族に祝ってもらう時間だった。誰かの誕生日にはみんなで車に乗って近くの不二家というケーキ屋に行き、誕生日の人が好きなケーキを選ぶというのが我が家の恒例だった。そんな中1度、私の誕生日の日に、福間というところのプールに遊びに行き、その近くに家族で泊まったことがあった。いつも食べる不二家のケーキとは違うケーキに立てられた蝋燭を吹き消したときの感覚が、蝋燭を消した瞬間の香りの中にある思い出だった。

昨年の誕生日は、ドイツで過ごす最後の日となった。その2ヶ月ほど前、誕生日の翌日にドイツを出ることを決めた。スーツケース一つに収まる荷物を持って、リュックを背負って、一人、フランクフルトを出る電車に乗った。ちょうど1年と2ヶ月を過ごしたドイツを離れる気持ちは、日本を離れたときの気持ちとはまた全く違ったものだった。そのとき私は、本当の意味で自分の人生の選択をしていくことを決めたのだと思う。途中いくつかの駅で乗り換えをしハーグの駅に着くと、ハーグに住む友人が出迎えてくれた。出産を控え大きなお腹をしながら、トラムにすっと乗り込む彼女が凛とたくましく見えた。案内された部屋は、コンパクトだがダイニングキッチンと寝室スペースが分かれていて、彼女の好きなものが詰まっていることが一目で感じられる空間だった。私のために開けてくれた棚のスペースや植物の水やりのペースについて説明をし、彼女はオランダ人のパートナーと子どもと暮らす家に帰っていった。閉まりにくいと聞いていた窓は案の定閉まらず、カモメの声で目を覚ます毎日が始まった。

あれからもうすぐ1年が経とうとしている。1ヶ月の家探しの後移ってきたこの家に暮らしはじめてからというもの、環境はほとんど変わっていない。ほとんども何も、季節が巡っただけである。(それはそれで大きな変化とも言えるが…。)状況もほとんど変わっていない。ありがたいことにだんだんと想いを形にしていくことはできているように思うが、まだまだ道半ばだ。しかし心持ちは大きく変わった。いつか来る未来を夢見るのではなく、手放してきた過去を惜しむのでもなく、今日という日を感謝とともに味わい切るようになった。世界の見え方は、今も変わり続けている。顔を上げ、窓から西の空を除くと、羽のような雲が広がっていた。2019.7.22 Mon 20:01 Den Haag


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