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373-375 時間の花に出会うとき

373. 朝の風

久しぶりに書斎の机の前に座った。わずかに開けた窓から流れ込む空気は、ひんやりとしているがやわらかい。小さな書斎に合わせて、小さな暖房がついているが、これはまだつけなくても大丈夫そうだ。目を閉じると、遠くから、かすかにカモメの声、車の音が聞こえてくる。こんな時間を過ごすことを、ここのところ忘れてしまっていたような気がする。

そういえば、この2週間、未来のことをたくさん考えていた。それは、今日という日をどう生きるかにもつながってくる大切な要素だ。しかしそれが少しばかり強すぎて、今日という日が、今この瞬間が、未来のための手段となってしまっていたように思う。身体の不調は、心が身体から抜け出てどこかを彷徨っているというサインだったのだろう。まだ少し、喉の痛みと、首・肩周りの凝りのようなものはあるが、サインに気づいた今、調子は回復に向かっていくだろう。

今日は美しい言葉に触れ、自然を感じ、静かに過ごしていきたい。そして、その中で、自分の中に浮き上がってくる言葉と光のカケラたちをそっとすくい上げていきたい。そのためにまずは、クローゼットの中の洋服を季節に合わせて整理をしていこう。見えるところだけでなく、見えないところを、整えていく1日にしたい。

にわかに、冷たい風が手元を撫でた。顔をあげると、階下の平らな屋根の上にできた水たまりに、細かい波紋が広がっていた。2019.9.25 Wed 7:46 Den Haag

374. こぼれ落ちていたものたち

クローゼットの中の洋服を整理し、机などの拭き掃除をした。寝室には壁一面、取り付けられたクローゼットがある。6つに区切られた、一人にはあまりに大きなスペースのうち一つをコートやワンピースを掛けるところ、一つを日常的に使う衣類を置くところ、そしてもう一つを普段使う頻度の低い洋服や季節外の衣類を入れるところとして使っている。日常的に使う衣類を置くところに夏の衣類を置いたまま、秋の衣類を加えて置いていたため、ごちゃごちゃとしてしまっているように感じていた。これからの季節に着ることのない衣類は移動させようと、まずは一つ一つ衣類を出して畳んでベッドの上に乗せていくと、思ったほどそこに衣類があったわけではないことが分かった。綺麗に畳んでいないものがあったこともあるが、どうやら散らかっていたのは私の心の方だったようだ。いくつかの衣類を別のスペースに移し、あたたかい素材のものを、日常的に使う衣類を置くスペースに掛けた。

その途中、そう言えば今月末、サウンドバスのイベントに行きたかったのだということを思い出した。クリスタルボウルに興味を持ったことから、ハーグでクリスタルバスの演奏を聴くことができないかと探したときに見つけていたものだった。確か、25日よりも後の日付だったはずだ。いつも以上に身体を整える必要性を感じているし、ぜひ参加したい。そんなことを考えながら、自分自身の思考の方向性が随分と変わっていることに気がついた。

確か数週間前は、小さな音に耳を傾け、自分でも小さな演奏をするという、静かな日常を送っていた。それが、家を出て旅行をするタイミングでリズムが変わったのだろうか。今は自分がなぜクリスタルボウルに興味を持ったのかという経緯を思い出せない。しかし、それが、自分にとって大切なものに近づく流れだったことを感じる。そのときは、見えないものと見えるもの、聴こえるものと聴こえないものの世界のはざまにいた。それが今はすっかり、見えるもの、聴こえるものだけの中に身を置いている。「他者に理解をしてもらう」ということを気にしてはいなかったはずだが、どこかで、他者の理解の中で表現をしようとしている自分になっていた。そこからこぼれ落ちたものたちが、小さな悲鳴をあげ、身体の不調となって現れていたのだろう。

こう書きながら、日記を書いていて本当によかったと感じている。数週間前、小さな音の中で自分が感じていたことを振り返りたい。気づけば、新しい取り組みを進めようとする中で、自分にとって大切な気づきと結びついていたものを忘れてしまっていたように思う。「あわい」の世界ではなく、すっかり、こちら側の世界に浸っていたのだ。「どちらか」ではなく「どちらも」を包み込む世界を持ちたい。今日は、こぼれ落ちた大切なものを思い出す日になるだろう。2019.9.25 Wed 8:47 Den Haag

375. 時間の花に出会うとき

ポタポタポタという音に顔をあげると、窓のガラスに水滴がついていた。雨がまた降り出したようだ。今日は、自分自身の心の声に耳を傾けた日だった。「物事」ではなく「他者」のことでもなく、それらを見つめる「自分」と向き合うことの大切さというのは、何度実感しても十分ではない。生きている限り、自分自身と向き合う取り組みに終わりはないだろう。それが生きていることだとも言える。

やさしくてうつくしい言葉に触れたいという想いに従って、『モモ』を開いた。

−小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。(ミヒャエル・エンデ作 『モモ』より)

頭も心も、放っておくとすぐにお散歩を始める。通り過ぎた過去のこと、自分では決められない未来のこと。そんなことを脇に置いて、ただまっすぐに、目の前の人の話を聴いてくれるという存在と出会えることにどれだけ心が救われただろうか。日本を離れ、新しく人と出会う機会が少ない今も、そうした人と出会えることは本当に幸せなことだ。自分の弱さとともに、生きる強さのようなものを思い出させてくれるのは、その人が、自分の弱さを受け入れ、様々なことを乗り越えながらしなやかに生きてきたからだろうか。優しさと厳しさの両方を自分に対して真剣に向けてくれる人というのは本当にありがたい。そんな人とは、歳を取るごとになかなか出会わなくなると思っていたけれど、扉を叩けば出会うのだと、そんなことを教えてもらっている。全てを自分の意志で決めていく道が良いと思っていた。でも、今は、導かれる方に進んでいこうという、そんな気持ちになっている。

お昼過ぎ、外に出ると、思ったほど風は冷たくなくて、そこにはもう過ぎ去ったと思った秋があった。色や匂い、音では分からない、でもそこにあることは分かる。さらりとそっけないけれど、そこにそっといる。時間の花は、毎日ゆっくりと、順々に、次々に開いては閉じ、開いては閉じ、巡ってゆく。同じ花を見ることは二度とない。世界を彩る色と音は、止まることなく、奏でられる。あれは美しい時だったと気づくのは、いつも終わりを迎えてからだ。戻れないときを過ごした切なさを振り返るとき、そこにはもう、新しい花が咲き始めている。それに気づくのも、やはり、通り過ぎた後だろう。

心の中に流れる音楽を、どうやって表現すればいいだろう。言葉はいつも、溢れるほどにあって、でも、やっぱり、言葉ではその静かな旋律を、やわらかな音色を、表しきることはできない。時間とは、そこに生まれる生きた音楽であって、共にそこに耳を傾けることでしか、同じ時を観ることはできないだろう。そしてそれは、言葉にした瞬間に、それぞれに違う絵になっていく。

ここのところ、言葉になるものだけを言葉にしていた。見えるものだけを見ていた。聴こえるものだけを聴いていた。触れられるものだけに触れていた。でもそれは、世界の半分にも満たない。言葉にならないものを言葉にし、見えないものを見て、聴こえないものを聴き、触れられないものに触れていく。それができたときに、そこに咲く花の本当の美しさに出会うことができるということを、強くなった雨音を聞きながら思い出している。2019.9.25 Wed 18:35 Den Haag


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