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そこの夕日に音楽が聞こえる

今週末 Iの職場からならたぶん そう遠くない場所で好きな音楽家のライブがあるんで またそっちへ 行けたらいいんだけどと 思いながら ライブで演奏されるかもしれない音楽を 聴いてる たぶん 今の季節と そちらの風景に合うんじゃないかと 思っている 八月に話したかもしれないけど バイト先は 同僚の人がしばらくはお休みするらしく 日数が増えたよ バイトだけで一日三万歩弱 歩いている 散歩とは違うんで 仕事終わりにまた歩いてしまったりしている そっちはそう変りないですか? バイトの報告をしてしまったが お店は休業中のまま 最近読んで面白かった本は 「マザリング」って本で 見てないかもしれないけど 「大豆田とわ子と三人の元夫」というドラマと自分の中で 勝手に繋がったりした 自分は子どもと暮らすまでは そう不自由さを 感じていなかったのかもしれない 社会構造に そもそもゼッケンを付けて番号で呼ばれる職場に居たりしたから社会との接点がないまま いれたのかもしれない どこにいるのかわかってなかったしね 子どもと暮らし始めてから 納棺の仕事したのは 無意識に 社会の中で 有機物に触れたかったからかもなとか 最近になって思うよ 亡くなられた方に会った時に 手を加えない方がいいなとか 顔の皮膚が溶け始めてるけど ざらついた感触が足の方でするなとか そういうやり取りから 生命力を得ていた気がする 自分は母親になった気になったことは 一度もなくて 一応 子どもと保護者という関係だけど 0歳の時 産まれる前から その人の意思をはっきり認識していたから 今も特別な感情はないけど 必要な素材をこちらの方が渡しやすい状況にいるから しているだけで 社会でいう母親という記号になったのではないんだけどね こちらが特別に感情を持てないことも向こうも認識しているしね とか話したら やっぱり考えてばっかやねと 言われるのかもしれないが 最近はやっぱり考える人でもういいかなとも思ってる 自分のような人は 考えないと慈悲にたどり着くことがないかもしれんからね 偶に 早く懐かしいと感じる場所に帰りたいなと 思うんだけど もう少し こっちでやろうかなと思ったりする 最後までやりきるかと思っとるよ 最近は 自分のことだけに集中する時間が持てないからこそやれることあるかもなとか あったらいいなとかね 違う地層を言葉にして 置いていきたいところ Iはもう少ししたら誕生日か 珈琲豆を送れたら送ります 70くらいまでもし生きていたら 面白そうなIを見れるような気がするよ ライブ行けばいいのになと思うけど まあ連絡もしないだろうから ここに書いとく

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