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思想よりも信仰か

ただ考えていることの途中経過を出すのに小説というもので試すことはできないだろうか?
今まで見てきた人や物や事象やらが等しい距離で無数に点在して見えてきて、そこから聞こえてくる誰かが発した音や発しなかった音、自転車で通った道に立っていた高齢の女性や、山道で見かけた小学四年生くらいの女の子とお父さんが話している会話、木々の隙間から差し込む光、商店街の看板が視界から歩く度に消えていく画像、どこかでは微かに聞こえたかもしれない音、確かにそこに在ったものを書き留めることはできないだろうか?そんなことを考えていたような気がする。
話は変わるが、自分は5年間小さなお店を開け続けている。お店を続ける為にバイトの時間は増えていき、とても仕事とは言えない状況で開け続けている。何故そんなことを続けているのか?わからないまま続けている。少数かもしれないが、誰かがその場所に立ち寄り、その場所で話される音を聞いている。そこでしか発することのない音が聞こえているのかもしれない。音を聞きながら、もう過ぎていった風景や音やそこに在ったものを肯定することはできるだろうか?誰かの発しきれなかった音を聞きとってそれに輪郭を見ることはできるだろうか?そんなことを考えるようになっていた。それをやる意味も思想もないただそうしたくなったとしか言いようがない。特定の何かを信仰するとかではない、けれど思想ではなく信仰に近いようなもので、日々、生活しているのかもしれない。
課題と締め切りに感謝を
思考の途中経過を読み合う場としてそこに在る創作センターに感謝を
点在して在るものを見続けようと思います。

創作センターへの受講の言葉として書いたものです。


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