【小説】魚の缶詰/競馬/観劇態度
魚の缶詰
僕は釣り上げられてすぐに内臓と別れさせられ缶詰にされた。海だか川だかを泳いでいた時の事は何一つ覚えていない。僕は今になってやっと間違いなく明晰に語ることができるようになった。生きていた事など丸っ切りすっかり忘れてしまっているが、幸か不幸か僕はまだ完全に無という訳ではないらしい。僕は死に損なった。僕はこの出口のない自らが放つ悪臭と同居しながら、鼻声で何かを語っている。語ると言っても喋っている訳ではない。ただ溶けているだけなのだ。僕がありもしない独語をやめて何かしらを語る、或いは死骸の現れとして語り始めるのは、恐らく溶けるという僕が見えなくなってゆく自己解体的な行為が取り纏められ、僕の精神の揮発性の散乱物が、要は僕が溶けてゆくのに従って引き出された悪臭を持つ瓦斯が外へと解き放たれた時にであろう。僕は嘗て禁じられていたもの、つまり彼の印だった。だから僕は危険なのだ。印が吹き出し、辺りを汚す、と言う僕の未来は僕のこういった来歴からして決まりきっている……。でも僕は溶けゆく事に耐えられない。これ程苦しい事はない。僕は溶けてゆくのが苦しい、でも僕はどうしても溶けてゆかなければならない。完全に溶け切って全てが瓦斯になる、そんな事は不可能だろう。なんて不毛なんだ。そんな疑問を抱いてでも僕は溶け切らなければならない。それが定めだからだ。というのも僕が感じ取れる限界は、この定めを受け入れる事でしか示されないのだから。
それでも僕は不平不満を言う事で確定された何も定まらない未来に抗おうとした。彼は僕の前には来ないし、僕は彼ではないのだし、彼の代わりに役立つことがあろうとも彼ではないのだし、溶け切った僕は尚更彼ではないだろう。そもそもどの程度まで溶けるのかもわからない。完全を示しながらも完全とは関わりのない僕の悲しい来歴がそう囁いている。その来歴は僕に何も求めてはいけないと言いつける。僕は復讐として、僕の苦しみを補填する種無しの超越的な麺麭を望んだ。僕に齎されることはないと知っていても、僕の形の上方にはきっと。
缶詰は円い机の上に置かれている。一組の男女が缶詰を置いた机を隔てて向かい合っている。男の方が缶切を持ち、それを缶詰に突き立てた。すると穿たれた穴から溜まっていた瓦斯が、魚が溶けた際に出た瓦斯が外へと勢いよく噴き出した。死の匂いが辺り一面に飛び散った。男は鼻を摘みながら笑い、女は飛び散った瓦斯が自らの服についていないか確認しながら顔を顰めている。事実彼女の服は汚されていた。男は口で息をしながら手早く缶詰の蓋を覗くと小さな包丁で魚の身を突き刺して二枚の皿の上に盛りつけた。女は黙って戸棚からふっくらと膨らんだ麺麭を取り出し、それを適当に切り分けて、魚が置いてある二枚の皿の余白にあてがった。男は汚物を触るかの様に小さな包丁で魚を器用に麺麭の上に乗せるとその辺りに置いてあった適当な調味料を目分量でそれの上に撒き散らすと、せかせかと自分の口の中に放り込んだ。女も同じ様にして、それを頬張った。
競馬
彼は賭ける事に狂っている。でもその事をわざわざ気に留めたりしない。寧ろその事を忘れているし、我こそが正常なりという顔をして街を歩いている。彼は賭け事の中でも取り分け競馬を好む。好むというが、それは馬への愛情や生命の躍動感、忘れ去られた騎士道精神への憧れなどから引き出されたものではない。彼にとっての賭けは競馬の形式でしか存在しないのだ。でもそんな事はどうでもいい。彼は今日も下品に喚き散らしている。彼は決まっていつも同じ馬に賭ける。一度たりとも賭ける馬を変えた事はない。いつもその馬を念頭に置き、ただ何かを願っている。彼には初めからこの選択肢以外存在しないかの様に一途に賭け続けている。周囲の人間にその事を指摘されても彼はお構い無しだ。賭け事の選択も、そうやって選択された賭け事である競馬での選択も、まるで初めから終わりまで彼の選んだ選択肢しか存在しないかの様に頑なに一つを貫いている。それはもはや選択肢とは言えないような、彼によって決められた、ただあるがままの一つの定めである。
彼にその理由を求めても無駄だろう。彼は目先の利益や目のもっと先にある大きな施物を期待している訳でもない。そんなものは度外視だ。ただ純粋に競馬に取り組んでいる。半ば狂っている彼にとって倍率や馬を取り囲んでいる状況などは彼の決定を覆す様な誘惑にはならない。
彼がどう思っているかは分からないが、傍から見ると彼と彼の選んでいる馬はよく似ていた。その馬は金色の毛並みをしている、彼もまた金髪である。その馬は特別な血を引き継いでいる、彼もまたそうなのである。こうした一致は偶然なのか、彼の正しい意思が介入している必然なのかは分からないが、彼は今日もこの馬に賭けるのである。彼は例の護符を買い込んで競走の終わりの地点、決勝線の前、つまり彼の特等席に位置取っていた。競馬は勝敗に至るまでの過程がその結果と連続している訳ではない。最後には雌雄を決する、決したという事実だけが残る。そこにはある種の飛び越えがある。とはいえ彼は馬と化した自らの勝利を目的に据えている訳でもなかった。何故ならこれは彼の信念である賭けなのだから。彼は此処を支配しているのは作為ではなく彼の信念なのだということを直感的に感じ取っていた。
馬達は下見所から移動し発馬機に入った。彼が選んだ金色の馬は一番内側の列にいる。号笛が鳴り響き門が開く、そして馬達は一斉に走り出した。空を泳ぐ巨大な龍の様に馬の群れは終点目掛けて駆けてゆく。途中、馬同士の場所が入れ替わる、風にそよぐ龍の鱗が光を反射する様に全体の中でそれらは互いに干渉し合う。彼は狂った様に自分が指名した馬の名前を叫ぶ。
「マルガレーテ!!」
マルガレーテは決勝線に到達する大分手前で突然正気を失い、騎手を振り落とし逸走してしまった。決勝線上からは決定的に逸れ柵の奥へと、他の場所へと駆けていってしまった。恐らくマルガレーテはもう戻ってこない。彼はただ立ち尽くしていた。彼は自分の狂気を殆ど自分であるマルガレーテを通じて感得していた。そして彼は賭ける対象を、賭けを、彼の代わりに担ってくれるものを失った。遂に彼自身の信念という愚かさが覆っていた賭け事の狂気が剥き出しになった。彼はそれを前にしてその本質に恐怖した。実のところ彼は何一つとして永劫に黄金に輝く様な質を持ち合わせていなかったのだ。今までの彼の幸福を示していた陋劣と偏執はただ偶然によって清められていただけなのだ。彼は想念の全てを失ってしまった。茫然自失の彼の横を灰色の毛を持つ馬が駆け抜けていった。
観劇態度
世間を席巻している市民劇団が遂に我々の街にやって来た。彼等の人気は演目によるものではない。その演目は何世代に渡って引き継がれて来たものではないし、世間的に知られた名作の複製でもない。寧ろ世間に知られていない無名の作家によって書かれており、脚本自体は一才の栄光とは無縁だった。ただ団員の方は何世代にも渡って引き継がれた役者という看板を冠している者が大勢在籍していた。
私は所謂知識人階級に所属する友人と件の公園が行われる近所の市民会館へと足を運んだ。会館の正面の玄関口にある入場券売り場には既に長蛇の列が出来ていた。私がその最後尾に付いて行こうとすると友人は何故か私の肩を叩いてそれを制した。「芝居をより楽しむことができる様になる方法がある」友人は私にその方法を手短に伝授した。最初は納得できなかったが、友人の説得に根負けし私は友人の言われるがままに会館の正面口を後にした。
友人の助言から、私達は席に着かず最後列で立ち見する事にした。程なくして照明が落ち、幕が上がり、演目が始まった。登場してきた役者は一時代前の人々の格好を模した衣装を身に纏っていた。彼等は筋書き通りに話し、互いに対立しあい、仕舞いには殴り合った。しかし、この暴挙は我々が望んでいるものだ。それは舞台の上だけで為される事が許されるような様な特別な行為だ。それらの行為は我々とは直接関係がない。
私から見て右手側の役者が台詞の止んだ沈黙の中、大きく振りかぶって目の前にいる敵を殴ろうとすると、その役者の胸の衣嚢が震えた。その瞬間、呼び出しの鐘が会館全体に鳴り響いた。雷鳴が暗雲に亀裂を入れるようにして、その音によって空間は罅割れた。途端、観客から一斉に野次が飛ばされた。一言で要約すれば「決められた自分の仕事を全うしろ」という様な事を各人が叫び散らしていた。ある観客は罅を乗り越え、つまり舞台と客席を隔てている境界を越え、舞台に上がり、その役者へと一直線に向かって行った。役者は振りかぶったまま静止し――予め決められた運動を、それを貫徹するまで止まらない運動を何とか停止させていた――彼の忍耐は遂に限界を迎え、力は自ずと都合よくそこに現れ、与えられた対象へと向かっていった。役者はある観客を殴り飛ばした。それを合図に役者と観客、最早区別がつかない程の大乱闘となった。
友人は澄ました顔でそれを眺めていた。そして私にこう語りかけた。
「奴等は舞台と観客の間に境界が設けられている事を知らない。役者である資格も観客として演劇に参加する資格もない。あの観客共は観劇なんぞに興味がない。交流以前の交流であるような乱痴気騒ぎの混沌だけを求めている。どんな建前もこの通り、書割の奥に追いやってしまう。でもどうだろう、私が言った方法を実践すればこの様にこの低俗な演劇をも楽しめるようになる」
実のところ私は友人の助言に従い入場料を支払わずに裏口からここに忍び込んでいた。故に入場券も持っていない。私には友人の意図がいまいち読み取れなかったので、その理由を尋ねた。すると友人は表情ひとつ変えずにその訳を説明し始めた。
「もし私達が金を払っていたらあの乱闘に参加せざるをえなかっただろう。でも盗み見るのならどうだろう。私達は幽霊だ、招かれざる客だ。この空間に浮遊しているだけだ。確かに無賃と言うのは褒められた事ではない。でもどうだろう奴等の越境と比べれば優しいものだろう。そもそと私達は金に絡め取られた奴等の関係とは無縁なのだからね。するとどうだろう、舞台と客席を隔てていた境界は後退する。つまり今は私と君の前に引かれている。あの入り乱れた乱闘自体が、金に規定された関係自体が演劇になる事を望んでいたんだよ。私達の為にね。金を払わない事こそが真に知的な観劇態度なのさ」
友人はそう言うと立ち見をやめて、座っていた観客がいなくなった最後列の椅子に腰掛けた。私も友人に促されて隣の席に座った。すると私達が座った座席を照らしていた照明は消え、私達を劇場から隠した。