藍玉と蒅 ⅰ
揉み藍と藍玉と蒅
『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍産地の優劣が書かれています。京洛外が一番良く、次が摂州東成、阿波、淡路となっています。ここでの評価の基準は判りませんが、京蓼の浅青は美しいとの記述があります。記されている藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍、刈り取った葉を揉み藍と藍玉に加工する仕方も書かれています。三才図絵が出版される前から阿波藍は全国に販売網をつくり、大坂・江戸問屋の開設も済ませ、藍の栽培・製法の秘密は非常に厳格になり、情報が他藩に知れることは御法度でした。記載されている揉み藍も藍玉も阿波の製法より簡易な方法と思われ、醗酵の日数も形状も阿波での初期の藍の作り方のようです。江戸時代になり政治が安定して産業が盛んになってきても、藍の製造や染色の技術についての記録は極めて少なく、明治になるまでの長い間徹底して機密保持がなされていたことがわかります。
いつ頃から現在の蒅と呼ばれる形態の染料に、加工されるようになったのでしょうか。天文10年(1541)頃、上方から青屋四郎兵衛が阿波に来て、新たな藍染めの方法を実践して米を手に入れた。と『みよしき』に記されていることの解釈として、米蔵が建つほど栄えたのは藍瓶を加温する設備を整え、初めて藍染めの仕事を一年中行ったとする説と、米蔵とは藍を醗酵させる寝床と呼ばれる建物なのではないか?との説があります。記載されている文章を読む限りどちらとも判断できる内容ではありませんが、なんらかの発展があったことは確かだと思います。藍の葉は乾燥した状態でも長く保存していると、虫が涌くこともありますので、割と早い内からに和漢三才図絵に書かれているような揉み藍、藍玉の状態までは、どの地域でも加工していたと思われます。阿波ではもう一歩進んだ醗酵をこの頃には始めていたと思いますが、何といっても資料が何もありません。16世紀の阿波は三好長慶が室町幕府の実権を掌握していて、堺の港に阿波から大量の藍を運んでいました。堺は国際貿易港として多くの人たちの交流があり、武具・馬具を扱う商人が藍を必要としていたため、藍を取り巻く環境にも技術革新があったかも知れません。
資料に残る藍栽培面積は、明暦–万治期(1655–1661)には数百町歩、元文5年(1740)7郡257町村で2994町歩が栽培されています。(1町=0.99ヘクタール)栽培面積の増加の様子から、他の産地より蒅の品質が優れていたことで、商品作物として支持され全国に広がりました。参考までですが、埼玉県における最盛期明治30年(1897)の武州藍の栽培面積が3028町歩です。
水師学校 藍師犬伏久助
葉藍の繊維質を醗酵によって分解して大幅に減量することは、初期から保存のためにも行われていた行程です。蒅のような長い期間において繊維醗酵をすることの技術革新は、改良を進める過程で発生したと思います。糖質やタンパク質といったインジゴ以外の物質が分解され、多量の有機物と微性物の藍還元菌などが含まれた物質に変わる行程が、染料としてより価値のある状態に成ることで、現在の蒅のような状態に完成したと思います。
初期の段階では長期醗酵を確実に行い良質な蒅を安定供給することは難しく、常に変化する醗酵の状態を把握することの未熟さから、葉藍の寝せ込みの失敗はしばしば起きていました。板野郡下庄村(上板町)の藍師犬伏久助(宝暦8年-文政12年・1758-1839)は蒅作りの改良に力を注ぎ成功しました。『阿波藍沿革史』西野嘉右衛門編の中「阿波藍考証」には温熱の調整と香気の善悪によって水分の多少を鑑別し、積重ねる体積の分量によって施水の増減を考究し、藍の寝せ込みの腐食を阻止した ・・・・・と書かれています。製造法で最も大きな問題は、醗酵行程での注水、蒅の温熱と醗酵の調節が枢要であったといわれます。
江戸末期には「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」森下禎之助、明治になると「阿州産藍之説」安岡百樹、「藍の栽培及製法」三木与吉郎、大正では「阿波の藍作」徳島県立農事研究會によって藍栽培・蒅製造について詳しく書かれていて、道具や作業風景も当時の状況がわかる内容になっています。なかでも醗酵の温度調節において「寝床」が改良され「水師」と呼ばれる醗酵の段階によって、水量を管理する専門の技師が生まれたこともわかります。これらの書籍から想像して、江戸後期には現在と同じような蒅が完成し、長期醗酵の理論が染料の向上に結びついたと考えられます。
『阿波藍譜』後藤捷一(1960-71)全6冊 三木文庫「藍の栽培及製法」編の中に「水師」を養成する学校のことが記載されています。「藍作り方伝授書」「蒅製法伝授書」が天保3年(1832)に改正されたことと、嘉永5年(1852)に森下禎之助が松五郎に伝授書を授与している記録が残ります。松五郎は藍座役所(私立水師専門学校)で十年間も製藍に取組み、絶えず蒅の状態を把握し、天候気温なども勘案して水量を決め適当の処置を学び、醗酵日数や醗酵斑を防ぐための工夫など多くの秘技を習得しました。その後文久4年(1864)松五郎は家業も繁栄し、藍座役所の佐藤松五郎として豊後国臼杵藩の井沢幸兵衛に伝授書を授けています。犬伏久助が完成した蒅の変質を阻止する技術を、多くの藍師に伝授したことで阿波藍の品質は安定し、繁栄が続きました。御法度だった技術も明治以降になると全国各地に移転し「阿波藍」の名を不動のものとしました。
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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。