『ビフォア・サンライズ』(リチャード・リンクレイター ,1995)
個人的な好みで言えば、会話劇の映画があまり好きではない。映像ではなく言葉で情報を伝えようとするのなら活字のほうがいい、と思ってしまう。
でも、この映画には「明日の朝まで」という期限つきの関係で、いかにして距離を縮めるかという前提条件があるので、お互いを知るためにはとにかく質問を繰り返さねばならず、会話劇でなくてはならないという必然性があった。
他にも、たとえばレコードショップの視聴室にふたりで入って物理的距離の近さにもじもじする長回しの演出や演技、ロードムービー的な街ゆくひとたちとのささやかな交流など、「映画としてつくられなければならなかった」とはっきり言いきれそうな歯切れのよさが心地よかった。
最後のほうに、帰ったらまず何をする?という会話をして、他愛もないやりとりのあと、《現実の世界に戻ってしまった》という台詞がある。
とても象徴的な台詞だと思う。
牛の劇をするひとや占い師、川岸の詩人など、行く先々で出会うひとたちの突拍子のない個性も手伝って、この映画はわざとらしくないぎりぎりのところで「夢」みたいにつくられている気がする。
夜に溶けこむモノクロームのスーラ
街を歩いていて、美術館のポスターを見つけるシーンがある。SEURATとあるから新印象派運動、点描主義で知られるジョルジュ・スーラの絵で間違いないと思うけれど、スーラの絵といえば明るい色彩を思い浮かべるのでモノトーンの絵もあるのだなと意外な気がした。この絵画は目立ちすぎず景色に溶けこみながら、「夢」みたいな感触の奥行きを出しているような気がする。
(※ちなみに、このポスターに使われている絵について、美術館などからのオフィシャルな情報は見つけられなかった……ゆくゆく調べてみます)
△ A Sunday on La Grande Jatte -1884, 1886(グランド・ジャット島の日曜日の午後)
△ Bathers at Asnières, 1884(アニエールの水浴)
隣りあわせにある点描の色を変えることで、離れた箇所から見ることで網膜上で混合され、絵具を混ぜ合わせてキャンバスに塗りつぶすときよりも、明るく見えることができる。
スーラは、当時出版された光学理論や色彩理論の研究に基づき、原色とその補色を並べていった。この点描こそが、色彩をより鮮やかにより強く見せることができるだろうと信じていた。
https://www.artpedia.asia/georges-seurat/
その色彩もあいまって、点描でえがかれたスーラの絵には、実像を結ばず永遠に手で触れられない夢のなかみたい、という印象がある。ぼんやりとした記憶を手繰りよせたような感触。近づけば近づくほど、その輪郭は粒子になって霧散していくかのよう。夢と地続きのウィーンの街で出会うにはぴったりの絵のように思えるのだった。
特別なさみしさ、アントニオーニ
ラストでふたりがウィーンを経ったあと、ふたりが通ってきたウィーンの街が朝のひかりに照らされていて、そこからほとんど無人のショットがつづく。(横切って歩く老人はいる)
どうしてもふたりの不在を感じさせて、魔法が解けてしまったような、またはお祭りが終わってしまったような特別なさみしさがある。それと同時に、なんとなく別の映画を思い起こす。
アントニオーニの挑戦が彼の頂点を極めたとするなら、同時に彼の省略的手法も全盛を極めたといえる。よく話題となる『太陽はひとりぼっち』のラストには、ヴィッティとドロンが待ち合わせに使っていた街角、ドラム缶から流れ出る水、バスのブレーキ音、上空を横切る飛行機音など、58ショットに及ぶ無人のシーンが収められている。これについてアントニオーニは、「“あらゆる感情や感覚の消滅”を表現するため」と語っている。
https://therakejapan.com/special/michelangelo-and-the-yearning-for-tragedy/4/
アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』みたいだ、と思ったけれど、この映画は無人の街のモンタージュでは終わらない。何かを思い出しているのか、それぞれひとりで微笑むふたりが交互に映されて終わる。
たしかに、アントニオーニのように《愛の不毛》なんて厳密なテーマではなく、ふたりは電車で乗り合わせただけのひとと意気投合しウィーンを歩き回って、むしろ「愛を発見」して帰途に着くのだから。たった一晩だけの旅が終わって、からっぽの朝の街を映したあと、ふたりの未来を感じさせるように映画を終わらせるのが最適解なんだろうな、と思う。そして、夢から醒めきらないようなふたりの表情は美しい。