根性論と、限界を超えること
「どうしてそこで攻めないんだよ!」
ずっと昔に、レスリング道場に入門したお笑い芸人の試合中に飛んだ、監督の檄だ。
厳しい練習から密着したその番組は、終始楽しい雰囲気のバラエティだった。お笑い芸人ならではの苦悶の表情と、それをひょいとやってのけるレスリングの現役選手たちとの落差に、笑いが止まらない。
さすが、アスリート。格の違いを見せつけられ、感心しながら見ていた。
練習を積み重ね、そのお笑い芸人の体力も技術も上がっていった。そんな中で行われた、練習試合だった。
素人目には、大健闘の試合に見えた。でも監督には、攻め切らないその試合運びがお見通しのようだった。
「どうしてそこで攻めないんだよ!」
そのあと、続いた言葉。
「限界を超えたところに勝利があるんだよ!」
練習は、それは厳しいものだった。日に日にできることが増えてきて、満を持しての練習試合だった。
十分、限界に挑んでいるように見えた。しかし、挑むのは、
限界までじゃなく、限界を超えるまで。
トップアスリートは、そうして日々挑戦しているのだと、ただ笑ってみていた私が恐縮した。
根性論とは、「理不尽」が伴うことで否定される。
勝負事に絶対はない。そして、負けた人にも、根性は存在する。根性が、勝者にのみ許される事象ならば、敗者にはその存在も無かったことにされてしまう。闘うすべての人が労われ、称えられる世界であってほしいと思うからこそ、根性と勝利を結びつけることを理不尽と感じてしまう。
勝利のための絶対量や、根性を測る尺度が不明確である以上、「根性さえあれば勝てる」という論理は証明できない。
だから、根性論は否定される。それは、理解できる。
スポーツは今、科学的根拠にあふれている。それをしていれば、勝負の舞台には上がれるだろう。
しかし、闘う選手の気持ちの中に、根性がなかったら。
闘っているのは、人間だ。勝負の間に、いろいろなことを考える。集中を切らした少しの隙。勝ちを意識した瞬間の驕り。そんな、ちょっとしたことが勝敗を左右することが往々にしてある。
レスリングの監督は、それを知っている勝負師だからこそ、攻め切らなかった芸人に「限界を超えろ」と言ったのだ。
昨日のキャンプ中継で、大御所の野球解説者が「もっと投げ込まなきゃ。休んでなんて言ってないで」「キツい練習はコーチがやらせないと。自分ではやらないんだから」と語ったその言葉は、時代錯誤と一蹴されるだろう。
「根性があれば何でもできる」という根性論を説いた訳ではないのだが、一般論として現代にそぐわない意見のような印象を与えてしまう。
選手の個別性を考慮していない言及である以上、その助言はやはり根性論と捉えられても仕方がない。
しかし、勝負は相手があるもので、人間が行うものだ。人には気持ちというものがある。限界と同じく、目に見えないものだ。
人が気持ちを持って行うスポーツという勝負が、物語を生み、感動を呼び、伝説を作るのだと思う。
それも、「心理学」という科学で説明できるのかも知れない。