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私がいつもビジター席から野球を見る理由 ○B×S●日本シリーズ2021第1戦
今日の席は、選んだわけではなかった。
抽選でつかんだ観戦のチャンス。ただのグッドラックだ。せいぜいチケットの申し込みにかなりの時間を割いたことくらいしか、私は努力していない。
「上段内野指定席1塁」という席種も、ワクチン・検査実証実験チケットであることも、京セラドーム大阪近くの「Buffaloes Ponta × LAWSON」で発券後に知った。
席などどこでもいい。どうしても、セパ最下位からの優勝を勝ち取った野球チームの頂上決戦を見たかった。コロナワクチン接種済証は、10月26日、横浜スタジアムのワクチンチケットで持参し観戦リュックに入れたまま。もう野球観戦にしか使わないような気になってくる。私は、幸せ者だ。
神宮では、いつも3塁側に陣取る。ビジター側のカメラ女子の命題は、ただひとつ。自軍のベンチを撮ることだ。
10代から神宮に通い、野球を見る“位置”には変遷がある。内野ビジター席に現在落ち着いているのは、カメラ片手に球場に通うようになった、ここ数年の話だ。
ベンチには、ドラマがある。白球を追う表情とは別の顔を見せる野球選手は、あるときは頼もしく、あるときは儚げだ。
そんな風景にこだわる理由は、過去の神宮にある。1992年、日本シリーズのある光景だ。
1992年10月26日月曜日。ヤクルトスワローズ対西武ライオンズの日本シリーズ第7戦は、雨天順延で平日に行われた。
私は、サボることなど言語道断の厳しい学校に通っていて、当然その試合を見ることができなかった。
翌日、『西武 日本一』を大々的に報じているスポーツ紙を何部も買い漁った。現地で見ることができなかった、日本シリーズという大舞台での、ヤクルトの戦いっぷりを確認するためだ。
あらゆる西武のエピソードを縫って、ヤクルトの記事を探していく。
しかし、ヤクルトの選手の記事は見当たらない。当然、写真も載っていない。当時の監督・野村克也の談話が数行に収まっているくらいだった。
当たり前だ。西武がシーズンを戦い抜いた結果の栄冠を報じることは、自然の流れだった。
そして、これが敗者の受ける屈辱で、栄光の影から陽の当たる場所へ出てこいという叱咤なのかも知れない。
敗れたヤクルトに渡す紙面などないと、そう言われているようだった。
しかし私は、ヤクルトの選手が今何を思うのか、ヤクルトファンとして知りたかった。
唯一、ヤクルトの情報を詳細に得ることができるサンケイスポーツが、敵チームの胴上げを黙って見つめるヤクルトベンチの光景を報じていた。
万年Bクラスの弱小チームが、王国を築き上げていた王者にここまで健闘した。そんな世間の評価だった。私もそう思っていた。
しかし、王者相手にひるむことなく戦い、あと一歩のところで勝利を逃したヤクルトの選手たちは、悔しかったのだ。
そんなことも分からなかった。ただ、明るく勝ち進む若いお兄さん世代の選手たちに引っ張られるように、私も明るくライトスタンドで緑のビニール傘を振っていた。
弱いのが当たり前でずっと生きてきた私が、悔しい思いをした。いや、悔しい気持ちに気づかないふりをして、明るいヤクルトの雰囲気に飲み込まれながらごまかしていただけだった。
しかし、明るい選手たちは、本気で野球をし、悔しがっていた。
そのことに気づいたのが、ひっそりと報じられた小さな面積の新聞記事だったのだ。
私が今、神宮球場の3塁側から見つめるヤクルトベンチは、あの1992年、悔しさに唇をかみしめた野球選手たちの30年後だ。
今日、サヨナラタイムリーで湧きに湧くビジター席でひとり、自分をひたすら抑え、あのとき誰も目を向けなかった、傷つく選手たちをひたすら撮り続けた。
悔しさから目を背けない。それが、30年前の私ができなかったことだった。
私も一緒に、悔しい思いをしようと思って。監督。私は悔しい。