英語を話すわたしと、島にいるわたしは別のひと。
最近、思うところあって英会話のレッスンを始めました。
コラムを書いているウェブマガジン「どうする?Over40」で、同じく参加メンバーであるミカスさんが講師を務めるオンライン英会話教室で、週に一度のオンラインレッスン。
慣れない英会話に四苦八苦してはいるものの、ミカスさんの教え方がとにかく上手なもので、会話が楽しすぎてレッスンということを忘れて夢中になってしまいます。遠い島にいてもこんな時間が持てるなんて、ありがとう光通信。
ただ、英語で話せば話すほど、そこはかとなく感じる違和感。レッスンが終わって、暗くなった画面に映る自分との落差。これはなんなのだろうかとずっと考えていて、
「ああ、主語があるからだ」
と今日気づきました。
英語では、誰が、いつ、何をする、ということを明確に言わないと、文章として成立しないところがあります。なぜわたしはシマ島に来たのか。わたしはシマ島のどんなところが好きか。なにをするときが、一番幸せか。将来自分はどうなりたいか。
英語の中の自分は、ひどく明確な意思を持った元気な女性のように思えます。言っていることに嘘はないし、確かにその通りなのです。なのに感じる違和感の正体は、「島でのわたしは、ぼんやりしている」からだと思うのです。
島での会話は、基本的に主語がありません。ときには、述語もありません。ひどいときには修飾語もありません。だれが、なにを、どうするのか、会話のなかにはなにひとつ情報がありません。
相手がだれかすら、わからないこともあります。
そんな会話、成立するんか。
するんです。
相手は何も説明しないし、自分も何も答えない。お互い、だれかもわかってない。どこまでも曖昧で不確かな、交わらない言葉のやりとり。
それが島のコミュニケーションなのだということを、移住して3年くらいで理解したのでありました。
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