Kilmainham Gaol
やはり、この場所を語らず終わる訳にはいかない。「キルメイナム刑務所」イースター蜂起が4月29日に終焉し日置かず5月3日には英国軍によって最初の銃殺刑が指導者に対して行われた非業の地だ。
正確に語ると今回の再訪では予めネット予約した者だけが入館出来る事に変更され(*既にDublin滞在中は全て予約が埋まっていた)今回は外から祈りを捧げるだけとなった。今回の記述は二年前の訪問の様子が中心となることをご了承願いたい。例えば網走刑務所を観光で訪れるか、と問われたなら私は否である。日本二十六聖人殉教の地に足を運ぶようにこのキルメイナム刑務所を訪れたのも祈りを捧げたかったからだ。周囲でまるでアトラクションに来ているよう囚人よろしくポーズの写真を撮っている人達の姿には頭が痛かった。
全体として重い空間は想像に難くないが実はイーストウィングはこの刑務所のことを知らない人も映画やPVで観ている可能性が多少ある。(U2のPVでの撮影は有名。)私は一枚の写真を撮ることも憚られ静かにゆっくりと歩を進めながら自分の中に風景を収めた。蜂起前の刑務所は大飢饉から過酷さから逃れる為に敢えて罪を犯し毛布と僅かな食事を得るために男女年齢を問わず人が収監されていた時代もあった。あまりに収監数が増え男女共に同じセルに収監されるために風紀も乱れ、後に女性と子がオーストラリアに送られる。セルの上部に小さな窓があったがここにガラスが入ったのは後からだそうで冬の寒さは過酷だったに違いない。イーストウィング他はセルも通路も狭く、そのセルの扉の圧倒的な遮断の強さに気圧される。足元の階段を見るとどれほどの人が歩くとこれ程に丸く研磨されたようになるのかと考えると語られることがない無名の人々の声が聞こえそうだった。
Stone Bakers Yardを表通りから写した一枚。内部写真は他の資料或いは映画からご覧ください。指導者16人の内14人がここの庭で英国軍に銃殺されてしまった。5月3日、12日に刑が執行されているがこの早い展開をみるだけでも軍法会議が如何に形式だけだったかが解る。
初めてこの中庭に立った時、見上げる青空とこの壁の向こうに市井の生活があることに、こんなにも日常に近い場所で命を奪われた彼らに悲しみでつぶされそうだった。
最後に救いの一枚を紹介:キルメイナム傍の交差点手前
「IRISH Republic」緑の旗がキルメイナム刑務所方向に貼られていた。
「あなたがたを忘れない」と云っているようだった。
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