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壱岐を訪ねる二泊三日・小さな島に150を超える神社を持つ島:⑪文永の役 新城古戦場跡
旅行から戻って訪問地の復習をもう一度旅するように行う中で、今回の文永の役については、つい、深く探ってしまった。
正直、歴史の舞台を訪れるまでは単に年表にある受験用の数行でしかなかった文永の役だったのである。
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「天の慈しみを受ける
大蒙古国皇帝は書を日本国王に奉ず。
朕(クビライ・カアン)が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。
まして我が祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し遠方の異国にして、我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。
朕が即位した当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので、命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが、その歓びは父子のようである。この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。
高麗は朕の東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来、時には中国と通交している。だが朕の代に至って、いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。
ゆえに特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布告させる。
願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び、もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
兵を用いることは誰が好もうか。
王は、其の点を考慮されよ。不宣。」*Wikipedia引用 但し改行は筆者
この国書は文永十一年(1274年10月)の蒙古襲来に先立つ至元三年八月(文永三年、1266年9月)に送られている。文永五年(1268年)国書は太宰府(九州)にもたらされ幕府をとおして朝廷に届けられたが、最終的に幕府は蒙古からの国書に返事をしない選択を取った。
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蒙古の正確な勢いも知らなかったであろう日本は、外交ルールである国書への返事もせず日本ルールで無言という返事を送ったつもりでいた。
それでも蒙古は元寇の前に回数には諸説あるが数度使者を日本へ送っていたそうだ。
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上に記した詳細を知らず、受験用の記憶で訪れた文永の役・新城古戦場跡だったが、その場に立った時とても遠い筈の鎌倉時代に引き寄せられたようだった。
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博多で神風が吹き元寇を追い払った程度の知識だったが、新城古戦場跡に立つと海から来た蒙古軍に追い詰められとうとう山を背にした此処で厳しい戦いが展開したのだ、と胸に迫るものがあった。
学生だった頃の私は蒙古軍が博多到着の前に当然ながら対馬・壱岐を辿ったことをどうして考えもしなかったのか。
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どういった人々がこの小さな島に集められたのだろう。外国との戦闘経験も無い中で非力な武器で立ち向かった人々は、只、只、日本を守る精神だけが支えだったろうか。
日本がどの国にも占領され続けることもなく、また、属国の歴史を持たない背景には近代の世界大戦前に遡って先人の流れた血がある。
此処新城古戦場跡の他にも千人塚という名で弔いの場が壱岐には数か所あることが、元寇の非情さを伝える。
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歴史に殆ど興味が無い方にとっては田園風景の長閑な場にある慰霊碑で終わるかもしれない。