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【コラム】『autumnus』についての考え

【コラム】筆者 : 菅 隆善  2024年10月15日 


雑誌を作ること

 『autumnus』は哲学・思想研究サークルautumnusの研究発表の場としての「機関誌」であるが、同時に一個の「同人雑誌」でもある。編集長の私にとっては前者とともに後者の意義もかなり自分の中で「活動意欲」の原点として、大きな部分を占めている。
 
 もともと思想や文学についての雑誌をやりたかった私は、大学入学直後に敬愛する評論家である吉本隆明の『習熟と持続』という小文を読んで、その思いをより強くした。

同人雑誌には、いつも強烈な愉しい体験がつきまとう。またそれがなければ同人誌は成り立たない。また何らかの理由で、同人誌が愉しくなくなったら、終刊のときだ。

吉本隆明『マチウ書試論・転向論』より「習熟と持続」

 自分自身で文章を書くこと、また同好の者たちと一緒に雑誌を作ること、それらは吉本と同じように私にとってもまた「愉しい体験」である。たとえその雑誌が多くの読者を獲得できなくても、作り手の方に「愉しさ」がある限り、続けることはできるだろう。もちろん長く続くに越したことはないが、どんなものにでもいつかは終わるときが来る。諸行無常、だからこそ一つ一つの作品が生まれる瞬間は美しく、大切で、そして愉しいのだ。

思想を記すこと

すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿すべきでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。

吉本隆明『初期ノート』より「過去についての自註」

 『autumnus』に書いた作品は、将来の自分が読み返したら強烈な恥ずかしさを覚えるものであるかもしれない。いわゆる「黒歴史」になっているかもしれない。特にそれが思想的なもの、自分の考えや思いを強く表現しているものならそうであるほど、そこには一種の「痛々しさ」が伴うのは事実だと思う。

 しかし吉本はいうのだ、そういった私たちの「思想体験の経路」は「捨てるものでも秘匿すべきでもない」のだと。私はこの言葉に出会ったとき、つよい感動と安心を覚えた(『習熟と持続』のときと同じように)。吉本はこの言葉を自分の初期作品群をおさめた『初期ノート』のあとがき「過去についての自註」の中で述べている。吉本は自身の過去の作品が出版されることに対して羞恥の思いなどをつらつら述べるのではなく、自信をもってこう言っているのだ。私はこの吉本の自信を「傲慢さ」などとは微塵も思わない。むしろ大いに勇気づけられたような気がする。ああ、こんなふうに考えていいんだなと。

 私たちは年齢とともに肉体的に変化している(言葉を濁さずにいえば老化かもしれない)。同じように精神的にも日々変化していると思う。「思想体験の経路」とは言いかえればその人の精神的変化の軌跡である。その軌跡が飛行機雲のように真っ直ぐなものであれ、あるいは虹のように大きな弧を描くものであれ、それらは恥ずべきものなどではなく、すべてにおいて瑞々しく、そして美しいものではないだろうか。もちろんそれらは完全なものではない。しかしいずれ自分の思想(そんなものが構築できるのかは分からないが)の中に「包括され、止揚されるべきもの」として存在意義を持っているのではないだろうか。

さいごに

 私はこれらの吉本の言葉を胸に刻みながらこれからも雑誌を作り、文章を綴っていきたいと思う。自分の純粋な考えを、確かな言葉によって。たとえ多くの人に読まれなくても、私にとっての「愉しさ」がある限りは。そして密かに妄想する、もしかしたらこの私の激しく蛇行する「思想体験の経路」も実は、歴史上の偉大な思想家たちの行き着いた場所へと繋がっているかもしれないと。いつか吉本のように、自分の言葉が、自分の軌跡が、誰かを勇気づけることになるのかもしれないと。少しばかりはそんな妄想を信じながら、新たな原稿に取り掛かりたいと思う。

参考資料

吉本隆明著『マチウ書試論・転向論』・講談社
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000167504

吉本隆明著『初期ノート』・光文社
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784334741020

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