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89年の夏③新しい季節の到来

夏の陽射しが、静かに過ぎ去る日々を惜しむように
ノッティンガムの街を照らしていた。
コンコードのサマースクールを終えた僕は、
タイ人の友人ヌーチからのつてで連絡を取った
先輩のジュリーと共に、3週間の仮の住まい
であるフラットを共有することになった。
彼女とは、それまで言葉を交わしたことすらなかったが、
生徒会長ジョニーの恋人である彼女の纏っていた
穏やかな雰囲気を、遠目に知っているだけだった。

東マレーシア出身のジュリーは、
大学入学のクリアランスをする日々を送っていた。
英国の大学進学制度は、Aレベル試験の結果を基にした
オファーによって進路が決まる。
彼女の細やかな仕草には、
これから始まる未来への期待と不安が混じっていた。
そんなジュリーの横顔を見つめながら、
僕もまた、自分の進むべき道を静かに思い描いていた。

日中は街を一人で歩いた。
フラットから街に出る道すがら、小さなCD屋に立ち寄り、
ジョン・レノンのアルバムカバーを眺めるのが日課になった。
彼の目が語る静かな訴えに、心が引き寄せられる気がして、
いつも長居してしまった。
夕方にはジュリーと合流し、
決まって通うチャイニーズレストランで夕食をとった。
お肉一皿、野菜一皿、そしてスープを二人で分け合うその習慣は、
いつしか二人だけの小さな儀式のようになっていた。

ときにはジュリーの用事に付き添い、
リバープールや大学のある街へも足を運んだ。
ノッティンガム大学の医学部に留学している
彼女の友人たちとの会話は、
異国に暮らす者同士の親近感に満ちていた。
ある夜、彼女の友人にご馳走になった食事の味は、
今でも記憶に深く刻まれている。
未来へ向かって進む彼らの姿に触れるたび、
僕はどこか憧れにも似た感情を抱いていた。

3週間は、まるで時が止まったように感じられるほど長かった。
手紙を書き、思いを巡らせる日々。
ポストに届く返事を心待ちにしても、
ノッティンガムの仮の住まいでは
それを受け取ることはできなかった。
インターネットも携帯もなかったあの時代、
僕たちはただ時間が流れるのを待つしかなかった。
遠く日本では、サマースクールで出会った友人たちが
それぞれの日常に戻り、夏休みの終わりを迎えているのだろう。

静かな日々の中で、僕の心にはいくつもの感情が芽生えていた。
孤独、期待、そして少しの切なさ。
それでも、夕暮れの空の下でジュリーと過ごす時間が、
僕にとってかけがえのないものになっていったのは確かだった。
そしてその時間の果てに待つ、新しい季節の到来を、
僕は静かに待ちわびていたのだった。

――4人組とジャネット・カー先生。

その物語が再び動き出すのは、
秋の風が吹き始める頃のこと。


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