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89年の夏②伝えきれなかった言葉
夕陽が水面に映えるプールサイドで、
さゆりは静かに足を水に浸していた。
空はまだ夏の名残を感じさせる色で、
夕焼けの橙色と青のグラデーションが
柔らかく広がっている。
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コンコードの夏は、
このプールと共に記憶に刻まれるような
美しい瞬間が詰まっていた。
けれど、その記憶がどこか
苦いものに変わるのではないかと、
僕は胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
チェスの勝負に気を取られていた午前中、
頭の片隅ではルミのことが
ぐるぐると渦を巻いていた。
なぜ、あの子は急に冷たくなったのだろう?
僕は記憶を何度も遡った。
言葉、態度、表情
――どれを思い返しても、
心当たりがない。
それでも、あのロンドン行きのバスが
遠ざかる瞬間の彼女の表情が忘れられない。
悲しそうで、でもどこか遠い。
「ふーちゃん、聞いてる?」
対戦相手の少年が駒を動かしながら僕を見上げた。
「え?」
「ノリコが言ってたこと、
マユちゃんのお母さんの話だよ」
僕は曖昧に頷き、話の続きを促したが、
正直なところ興味は薄かった。
ルミのことで頭がいっぱいだった僕には、
マユちゃんのお母さんの話など
関係のないことだったからだ。
けれど、その話を聞き進めるうちに、
僕は徐々に血の気が引いていった。
マユちゃんのお母さんが、
僕の評判を貶めるような話をしていた?
遊び人だとか、気をつけろだとか
――何のためにそんなことを?
彼女が僕に親切にしてくれていたのは、
単に僕を娘の「兄」役にしたかった
からではなかったのか?
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過保護なお母さんに気に入られていたけど、まさかの展開…
午後、混乱する頭を抱えながら歩いていると、
「マユのお母さんがまた来てるよ」
という声が耳に飛び込んだ。
その瞬間、僕の中の感情が沸点に達した。
職員室を飛び出し、
彼女を探して校内を走り回った。
そして、テニスコートのそばの芝生で
彼女を見つけたとき、僕の足は止まらなかった。
「どうしてそんなことをしたんですか?」
言葉は感情の波に押されて荒くなっていた。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、
すぐに笑みを浮かべ、
「さあ、なんのことかしら」
ととぼけた。
その態度が僕の怒りをさらに煽った。
気づけば手にしていた
バドミントンのシャトルを
彼女に向かって投げていた。
それは彼女の足元に当たり、
軽い音を立てて地面に落ちた。
もしそれがなければ、
本当に彼女に手を
上げてしまっていただろう。
怒りに震える僕の肩を、
後ろから大きな手が掴んだ。
「ふーちゃん、やりすぎだ。
ここまでにしなさい。」
ケース先生の落ち着いた声が
僕の耳に届いた瞬間、
怒りの熱が少しだけ冷めた。
不思議と、彼の言葉には逆らえなかった。
彼は僕の怒りの根底にある
悔しさを理解しているように感じたからだ。
その夜、僕は職員室の片隅で手紙を書いた。
ルミに宛てたものだ。
自分の気持ち、誤解を解きたいという思い、
そして彼女に伝えきれなかった言葉のすべてを、
震える手で一文字ずつ綴った。
途中で英語の教師がふざけて写真を撮ったが、
それすら気にならなかった。
僕にとって、その手紙は最後の希望だった。
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この時はお行儀悪し…
「ルミ、これで全部分かってくれるはずだ」
そう信じて、パリのホテルで繋がった
電話越しに「帰国したら読んでね」
とだけ伝えた。
彼女の返事は短く、
いつものルミらしい優しい声だった。
それだけで、ほんの少しだけ救われた気がした。
(つづく…)
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