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『山猫』と小沢一郎落選(からの比例復活)

2018年にルキノ・ビスコンティ監督『山猫』と小沢一郎氏について書いたものをコピペしてみる。
分かりづらいかも知れないけど、2013、4年に、2010年のことを思い出しながら書いたメモを、2018年にアメバブログか何かに載せたもの。
時系列がガチャガチャしてて読みづらいかもしれないけど、ま、ご勘弁。

―以下2018年のコピペ―

今はなき新宿テアトルタイムズスクエアで観たルキノ・ビスコンティ監督『山猫』。『山猫』にまつわる小沢一郎の発言に対して、2013、4年に書いたメモ。(に訂正と加筆したもの)

―以下2013、4年あたりのメモ―

とりあえずざっくりあらすじ。

イタリア統一戦争中、没落してゆくオッサン貴族のサリーナ公爵と、これから時代を担う新興勢力の若いタンクレディ。この二人は伯父と甥の関係。この二人が色々やる話。

以上。

2006年4月、民主党代表選立会演説で小沢一郎は『山猫』冒頭のセリフ「変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない」を引用(※ここ、イタリア語版と英語吹き替え版では全然違うらしい)。このセリフ、革命軍=新興勢力=若者が発したもの。
で、小沢氏はこのセリフを発したのが「若者のセリフ」なのに「オッサンのセリフ」だと勘違いしてるんだな。しかも伯父サリーナ公爵に問われた際、甥タンクレディが答えたセリフ。
「若者→オッサン」「オッサン→若者」だと勘違いしてる。

この勘違いはさまざまな媒体で指摘されている。

『山猫』を観た人が、小沢氏の言葉を聞いて混乱したのはそのため。
この決定的な勘違いは小沢氏が「追い出される側」つまり既存勢力になったため、ついつい記憶がすり替わってしまったからじゃなかろうか。小沢氏は青年時代に『山猫』を観て、「既存勢力を追い出す側」つまり新興勢力に自身を投影させたことだろう。
青年時代、よもや既存勢力に自らを投影させるわけがない。

劇中、新興勢力に取って代わられ没落と死に向かうサリーナ公爵は、古きよきものを守ろうとするが時の流れに抗えない or 時の流れに身を任せるといった感じ。テレサ・テンみたい。
若き小沢氏は『山猫』を観て「オッサンどもに取って代わるぞ」と息巻いたことだろう。

さて、演説から四年(2010年のこと)。民主党を厄介払いされそうになった小沢氏とサリーナ公爵をダブらせることができてしまう現状を鑑みると、時の流れと皮肉を感じる。判決が出たとき小沢は時の流れに身を任せて滅びることを選択するのか? 剛腕を発揮して別の選択をするのか? 政治家小沢というより人間小沢として興味がある。

―以上2013、4年あたりのメモ終わり―

2013、4年当時、私ゃこんなどうでもいいことを考えていたのだな。ちなみに小沢氏は強制起訴されて、判決確定まで民主党党員資格停止、無罪判決が出た数か月後に離党し、いろいろあって現在に至っちゃったりして。小沢氏は見事にサリーナ公爵になった、ということか?

毎日新聞の当時の記事を一部抜粋。というよりネットから拝借。というより盗用。ごめんなさい。

ルキノ・ビスコンティ『山猫』は1963年カンヌ映画祭グランプリ受賞作である。舞台は19世紀半ばのイタリア南部シチリア。革命に身を投じた青年(アラン・ドロン)が伯父ドン・ファブリツィオ(サリーナ)公爵に「生き残るために変わらねば」と迫るが、公爵は取り合わない。
一方、小沢氏の説明はこうだ。「青年時代に見た映画『山猫』のクライマックスで、イタリア統一革命に身を投じた青年が伯父の公爵に『なぜ革命軍を支援するのか』と尋ね、老貴族(サリーナ)が『生き残るために変わらねば』と答えた」。
セリフの主客が逆だ。それにこの場面は山場ではなく、開幕早々に現れる。公爵は愛するおいに財産の一部を与えるが、「私も変わる」などとは言わない。自らは変化を拒み、誇り高く滅び去る。山猫とは公爵家の紋章だ。映画の主題は変革ではなく、貴族階級の落日なのである。

毎日新聞

ー2018年のコピペ終了ー

さてさて、今般の2021解散総選挙において小沢氏は小選挙区で落選、比例復活することになった。そもそも政権交代しやすい小選挙区を推し進めた立役者は小沢氏。その小沢氏はさんざんっぱら「比例復活の議員なんて議員じゃない」と言っていた。何ともまあ皮肉じゃないですか。


AUskeえいゆうすけ

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