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DAY54)ミクロとマクロ

「倉橋は、精密な保育理論を立てたというよりも、むしろ子どもとかかわることを楽しみ、子どもに驚き、そして保育者と語り合いながら保育者を探求し続けていたと考えられます」

水津幸恵「保育の場における子どもの対人葛藤:人間理解の共感的まなざしの中で」

「…倉橋は、こうすればこうなる、こうすればこうなるから望ましいまたは望ましくないといった因果的な知識とそれに組み合わせた理論を提示するのではなく、詩や随想、小説といった論文とは異なる様式によって、子どもとのかかわる中で湧き出てきた情感やそこで得た感触、そしてそれに端を発する思想を表現していると考えられる。」

水津幸恵「保育の場における子どもの対人葛藤:人間理解の共感的まなざしの中で」

この2ヶ月、大学院に入学して、あっという間だった。インプットが多いのか、思考してばかりなのか、整理できてないだけなのか、昨日のことがずっと前に感じる。授業課題と自分の研究テーマに関する文献を読み続けていて「あ、こんなに読むんだ」と大学院での情報量が多い一方、反強制的に文献を読み知見を広げられる喜びも感じています。

しかし、一点、最近感じることがある。

「学術的で理論的な知識は増えたけど、そればかりで嫌になる」
「やっぱり身体的にいっぱい経験していきたい」
「やっぱり保育実践者からすごい」
「どんどん詰まらない大人になってる気もする」

だがしかし、端的なミクロな視点で捉えたらそうかもしれないが、長期的なマクロな視点で捉えたら、それはそれで大切かもしれない。

だから、こんな感情には「耐えろ。今は耐え、乗り越えろ」と自分を鼓舞する。いや、難しいかもしれないが、出来るなら「楽しめ。今を楽しで、遊んじゃえ」とも思う。今を遊べない大人に、子どもが見えるのか。



「結果とらわれて困るばかりでなく、またその原因を知って解き捨てることもせず、子どもの自発性に驚くのである」

水津幸恵「保育の場における子どもの対人葛藤:人間理解の共感的まなざしの中で」

「驚くことから、尊敬することも生まれてくる」

水津幸恵「保育の場における子どもの対人葛藤:人間理解の共感的まなざしの中で」

僕ら保育者は、保育の日常の中で、子どもの姿に驚くことはあるだろうか。もちろんある。しかし、経験を積み重ねることで、新鮮さは以前より減ってきているように僕は感じる。思考的になってしまった、経験豊かになってしまった一方で、ワクワクやハッとさせられることが減ってきているようにも思う。これは熟達してると思う一方で、とても危険性をはらんでいると思う。子どもへのまなざしが固まっていることや、そもそもその子どもへのまなざしへの疑問にも感じる。常に新鮮にいることは難しいかもしれないが、努力すべき事柄にも思う。驚きの出会う取り組みや仕掛けを作ることも熟達化への歩みかもしれない。成長への契機が少なく見えづらくなったり、そつなく見逃せる術を持ってしまった自分にどうアクションするか。間違いなく、大学院生活は保育者としての契機になる一方で、思わぬ道に、つまりより頑固な頭になる可能性があるもはらんでいる。まだ2ヶ月、されど2ヶ月。これからの自分が興味深い。

PS.
➀6月末辺りに「えどぴ -保育の専門性を高める会-」を開催しようと思っています。後日、詳細もアップしますね~

②毎週火曜日21:15~インスタライブで「えどぴのヨガ部」開催中


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