『蜚語』第18号 特集 もっと批判を!(1997.1)
【表紙は語る】
もの言わぬは腹ふくるるの業
コッタジという韓国の「労働歌謡」を歌うグループが来日した。この「労働歌謡」にあたるものが、日本にはない。
コッタジは、不屈に闘う労働者の姿を「岩」や「タンポポ」にたとえたり、我々は、つねに虐げられた者と共にいるなどと歌う。代表の李銀珍さんは、労働歌謡について「労働者が感じていること、真の生きる姿を歌で表現した」と解説している。これらの歌は、労働組合のストライキの現場などで歌われ、人から人へ伝わって、広められてきたという。今、まさに歌われていることだろう。
昨年10月、その来日コンサートが、埼玉県日高町にある高麗神社境内で開催されるとのチラシを見て、彼らの歌はホールより屋外の特設ステージの方がいいのではないかと、はるばる出かけていった。神社というのはちょっと引っ掛かったが、まさか、よくテン卜芝居なども神社の境内を借りて行なわれるし、同じ境内なら、朝鮮半島からの渡来人ゆかりの地ということで、高麗郷が選ばれたのだろうという程度の認識だった。
コンサートの主催者の中心には、『蜚語』第14号《ふりかけ通信》で問題にした「男子寮発言事件」(1993年12月)の際に、韓国へ語学留学中で一時帰国していると紹介された女性だの、くだんの差別発言男だのも含めて、当時の関係者が何人も参加するだろうことは予測していた。
とにかく、そのような日本人、つまり、韓国の民主化運動に「連帯」する前に、自らのグループの民主化と女性蔑視体質を、変革しなければならない人びとがちらほら見えはしたが、コンサートそのものは、久しぶりにさわやかな感動で終わった。
終了後、神社の集会場で交流会があり、コッタジのメンバーの話を間くために参加した。会が始まってしばらくすると、司会者から、高麗神社の氏子代表と宮司が挨拶すると説明があった。杖を突いた白い袴姿の老人が、コッタジの人びとには、ちゃんと通訳しにくいような内容の発言をした。私は、単に会場として借りただけだと思っていたので、ちょっと驚いた。
さて、その後、耳を疑うというのはまさにこのことだというようなことが起こった。やはり高麗神社の氏子だという人が、「地域の唄を歌う」と言って登場。とうぜん、埼玉県日高町周辺の民謡でも歌うのかと、通訳も思ったらしくそう言った。ところがその氏子とやらが突然「侵略戦争だって話もありますが、私は戦争が好きです。『加藤隼戦闘隊』を歌います」といって、コッタジのメンバー1人の肩に手をかけ、歌い始めた。あまりのことに、私は、一瞬、凍りついてしまい、同行者と呆然と顔を見合わせ、次の瞬間、席を立って廊下へ出た。
あまりに突然の許しがたい出来事に、食欲もなくなり、コッタジのメンバーの1人と話をし、連絡先を聞き、会を途中で退席してきた。帰宅してからも、あくる日も、あまりの怒りで体濶が悪くなるほどだった。
いくら、コッタジのメンバーに気を使ったとはいえ、その場にいながら、あのような歌を黙って歌わせてしまったことが悔やまれる。それにしても、主催者の責任は問われないのだろうか。
こんなやつらに挨拶させたり、軍歌だか、軍事歌謡だかを歌わせたりしてまで、高麗神社でやる必要がどこにあったのだろうか。主催者の前田憲二という映画監督の勝手な、趣味的な思い込みにすぎない。
高麗神社は朝鮮から渡米した高麗王が祀られれている。とはいえ、高麗王と「労働者の解放」を歌うコッタジとは、思想的には相反する立場にあるはずだ。
☆☆☆☆☆
特集 もっと批判を!
コンピュータを使っていない人には、あまり実感もなく、興味もないかもしれないが、パソコンを使い、インターネットの電子メールで、情報や意見をやりとりするML=「メーリグリスト」というものがある。内容はタレントのファンクラブや学術的な研究をテーマとしたもの、趣味などさまざまである。
私も環境や人権テーマとしたいくつかのMLに登録した。すると、毎日、全国、いや、全世界から意見や情報が届く。オーロラ自由アトリエの出版物の紹介を、情報として発信することもできるのだ。
1昨年、沖縄でのアメリカ兵による小学生強姦事件がきっかけとなってできた【marine】というMLにも登録した。といっても、毎日誰かが発信する情報を読むだけで、こちらから発すことはしないでいた。しかし私としてはどうしても黙っているわけはいかない「事件」に遭遇した。
今年9月、嘉手納基地内の下士官クラブで、日本人女性に対する強姦事件があったことを伝える情報が、いくつかの新聞記事の転載ととも【marine-ML】に寄せられた。
ことの発端になったのは、それに対するAさんの次のような見解だった。
これに対して、私は次のような反論を発信した。
ところが、この私の反論に対して、何人もの男性と思われる人から「同じように扱うには疑問がある」というAさんの意見に同感だという主旨の発言が続いた。しかも、したり顔で次のようなことを言って、あたかも自分は〝絶対に「加害者の立場に立った発言」をしたつもりはない〟と主張するのだ。
これらの人びとは、強姦事件で「被害者の落ち度」を云々することが、加害者擁護の立場に立ってしまうということが理解できない。しかも、強姦事件が裁判上でどのような、裁かれ方をするかということを、ほとんど知らずに、だ。さらに、問題はどんどんすり替えられていってしまう。
山口泉さんも見かねて、この論議に加わることになった。
山口さんの最初の「投稿」の全文を引用する。
私もすぐに再反論を発信した。「同列に論じられない」という意見を引用しながらの再反論だ。
Aさん〈沖縄出身者のHさんをはじめ、その他の人達(とくに女性)にも、前回と今回の〝私のメールを読んでどう思ったか〟を聞かせて欲しいです。そして、やっばり私の考えかたが変なのかを知りたいです。考え方が変なのであれば直して行きたいと思います。
私〈自らの発言に対する批判に対しては、基本的に自分で反論することを最初に行なうべきです。まずはじめに、第3者がどう思ったかを聞くのは、自分の発言に対する責任を軽視しているように感じます。
また、ここで私が問題にしていることは、「考え方が変」であるといった、情緒的なことではありません。女性の人権ということについて、ひいては、人間の尊厳とか基本的人権ということについて、どのような思想を持っているかという、とても重大なことです。しかも、Aさんのような意見を持つ人は、おそらく多数派だと思います。だから私は、重大な問題だと思って、黙っているわけにはいかなかったのです。〉
Aさん〈被害者は、「被害者のプライバシーの保護が日本のマスコミにたいして強力に行なわれ、かつ加害者の罪が重く裁かれる。」と思われる(米軍)に、捜査と裁判を任せています、と書いています。日本の現在の刑法は、婦女暴行に対して余りに軽微に考えています。これは、現在の刑法が、古い時代の「男は女よりえらい」的な考えに基づいて作られたからだと思っています。ですから、婦女暴行で無期懲役だって存在する軍法に任せたことを評価しています。〉
私〈アメリカでは、人口は日本の3倍ぐらいだが、強姦は20倍ぐらいあると聞いています。そのような状況の中で、女性たちの長くねばりづよい闘いの結果として、日本に比べれば、ましな裁判結果が期待できるようになりました。(州によって違うでしょうけれど)
その女性たちの闘いの内容の重要な部分は、今回のあなたのように「被害者の落ち度」を云々する人びととの闘いもありました。Aさんのような、「女性自身が〝強姦される可能性を作らない〟ことが1番だと思います。」という考えを持った人びとの、「強姦の被害者になるような行動があったからではないのか」「挑発行為があったのではないのか」といった、加害者擁護の発言との闘いです。被害者が闘って有罪判決を勝ち取るといった内容の、『告発の行方』のような映画も作られるようになったのです。これも、繰り返しですが「加害者擁護」というのは、刑事裁判では、その有無の採用の仕方によって、加害者は無罪となり罰せられないからです。」〉
Aさん〈日本人女性観光客に対して「ひと夏のアバンチュールを楽しむためだ」と思ってもしかたがない光景が見られます。遠藤さんも沖縄に戦争の悲惨さや米軍基地の状況を見ることと一緒に夏に訪れる観光客の一部の人達
が、米兵とどのような付き合い方をしているかを見ることを勧めます。〉
私〈「沖縄に戦争の悲惨さや米軍基地の状況を見ること」と「夏に訪れる観光客の一部の人達が、米兵とどのような付き合い方をしているかを見ること」をこのように並べることのできる人がいるということに驚きを覚えます。後者は他人のプライバシーに属することであり、それをのぞき見するような趣味は私にはありません。また、前者については、本島と伊江島のみですが、一通りのところは友人に案内していただきましたが、後者とこのように並べられるような見方をしたつもりはありません。つまり、これではまったくの物見遊山といった印象を持ちます。
あえてそのことについて言えば、たとえ、私が上にかかれたような光景を見たとしても、Aさんのようには思わないでしょう。似たような光景は、横須賀にも、福生にも、六本木にもあります。またそれらの女性たちを、興味本位で取材し非難した、隠し撮りのようなテレビ番組もありますよね。しかしこの世に5万といる買春男を、非難するような取材や隠し撮りは、あまりお目にかかりません。なぜでしょう。一般にこの社会では私は女性に対してのみ、貞操(女性の正しい操、節操、異性関係の純深を保持すること)という、性的モラルを要求しいるからです。私は、彼女たちに性的モラルを要求しません。それに、「光景」は光景でしかなく、そこに存在する理由や考えがあるかもしれません。
男が女性の行動に対して、たとえば、「ひと夏のアバンチュールを楽しむためだ」と、勝手に思い込んだことをもってして、そう思われてもしかたないと言ってしまうことに、問題があるのです。そう言ってしまうことによって、女性を男性の価値観によって拘束することになるのです。どうして女性が、自分以外の人間の一方的な思い込みにまでをも考慮した行動や生き方をしなければならないのでしょう。
Aさん〈私は独身で子供(娘)もいませんが、自分に娘ができたら、絶対耳にたこが出来るくらいに言い続けるでしょう。「隙を作るな」と……自分の娘を被害者にはしたくないですから……〉
私〈このような考え方こそが、強姦の被害者には、被害にあうような「隙」があったとの見方を生み出し、「被害者の落ち度」を云々するようになるのです。誤解されると困るので、お断りしますが、御自分のお子さんに注意を促すこととをいけないと言っているのではありませんよ。強姦には、さまざまな個々の事例があります。そのどれもが、「被害者の落ち度」を口にする人間にいわせれば、「落ち度」となることは存在するでしょう。自分が、「被害者の落ち度」を口にする理由として、このようなことを引き合いに出すのは、結局は、被害者をさらに傷つけることになるということを、御理解いただきたいのです。〉
Aさん〈「ましてやAさんの情報は、「テレビ朝日〈やじうまワイド〉による」ですよね。被害者の女性がどのよな状況に置かれていたのか、ほんとうは知らないわけです。やじうまワイドという番紐の名前から、「野次馬根性で誰かが話している番組」と思っているのでしたら、間違っています。〉(「」内は遠藤・前便からのAさんによる引用)
私〈申し訳ありませんが、私は、今日の日本のマスコミの報道姿勢は、「野次馬根性」だと思っています。ですから、間違っていません。ただし、「番組の名前から」などというレベルで、判断しているわけではありません。今日の社会の中で、マスコミがどのような役割をはたしているのか、また、本来どうあるべきなのかといったことを考えてのことですが、それについては、別の機会があればということにしましょう。
あなたはやはり、被害者の女性がどのような状況に置かれていたのか、知らないわけです。それは私も同じです。だとしたら、まず、マスコミや世間の噂などの情報で、被害者のことを判断するのは、慎んでいただきたいと思います。このことは、他の事件その他の報道に関しても同じです。〉
Aさん〈遠藤さんは、どうすれば強姦される被害者が無くなると思いますか? 私は、先にも書きましたが、物事の善悪を考えないで行動する人達がいる限り、女性自身が「強姦される可能性を作らない」ことが一番だと思います。〉
私〈これは、強姦ということを考えるうえで、最悪の考え方です。強姦は、「物事の善悪を考えないで行動する人たち」が起こすのではなく、この社会全体にある性差別の構造にその原因があるのです。多くの女性もまたその中で生きています。したがって、「被害者の落ち度」ということがあるのだと思う女性も多くいます。どのような場合でも、被害にあった女性に対して、まず言ってあげなければならない言葉は、「あなたは悪くない」「あなたに責任はない」ということなのです。
そして、ポルノをはじめとした強姦を容認し、助長する文化を変えていかないかぎり、すべての女性にとって、強姦の被害者になる危険性はつきまとっているでしょう。コマーシャルやテレビドラマ、歌謡曲、劇画などに、強姦を容認するようなものがあふれていると思いませんか。多くの人びとが、男女を問わず、それに、疑問をもたずに、おもしろがって楽しんでいるのも事実です。
少し前、コマーシャルなどについては、女性たちが抗議の声を上げたこともありました。しかし、圧倒的な力、物量の前に、太刀打ちできないのが現状です。強姦される被害者は、これからもなくならないでしょう。それでも私は、「女性自身が『強姦される可能性を作らない』ことが一番だと」は思いません。〉
Aさん〈去年発生した事件では、被害者が、酒を飲んでいた訳でもなく、深夜徘徊をしていた訳でもなく、米兵と付き合っていた訳でもなく、ましてや米軍基地内のクラブに行っていた訳でもない状況で、沖縄の常識で言っても「被害者に落度はない」から、誰もが「こんなことが起こることを許せない」と立ち上がったのです。〉
私〈このような物言いにも、私は賛同できません。被害者が小学生だったということは、私はより弱いもの、もっとも保護されなければならないものに対する暴力に対して、多くの人びとが怒りを表明したということとしてとらえたいと思っています。落ち度があったか、なかったから、とのとらえ方ではなくて……。「被害者に落度はない」というような考え方がもっとも危険で、女性を分断し、差別を生み出すのです。何度も言いますが、たとえどのような状況でも、女性が望まない性行為は強姦です。強姦された女性が、子どもでも成人でも、どのような立場、どのような職業にあっても、強姦の被害者であり、被害者が非難されるべきものではありません。
巷では、昨年の事件でも、「どうしてそんな時間に小学生が外を歩いていたのだろうねえ」といったささやきがあったのを御存知ですか。さらにもともと基地があって危険なことがわかっている沖縄で、親がそのような時間に女の子の外出をさせたことは、Aさんがおっしゃる「隙」あるいは「被害者の落ち度」という見方もあるということになりませんか。
強姦事件のうち、表に出てこない、つまり被害者が泣き寝人りしている
ものの多くは、Aさんのような考え方の人びとに、「被害者の落ち度」を云々されるようなケースだと思います。それは沖縄においては、碁地周辺の米兵によって生計を立てている人びとの間では、おそらく日常茶飯事だったのではないかと、思います。しかし、そうすることで、戦後の沖縄を生きてきた、とりわけ女性たちを思うとき、「被害者の落ち度」を云々するのは、加害者の立場に立った発言だとしか思えません。
女性が望まない性行為は強姦です。そして、「被害者の落ち度」を口にする人は、「絶対に加害者の立場に立った発言をしたつもりはない」と思っても、加害者を擁護してしまうのです。裁判では、被害者が、いわゆる「処女」であるか否か、職業や日ごろの行ないはどうか。加害者と顔見知りか否か。どんな関係かなどが、必ず問題にされます。つまり「深窓の令嬢か、あばずれ女か」によって、加害者は有罪にも、無罪にもなるのです。人間としての尊厳や基本的人権の重さは、どのような人間にとっても同じですよね。強姦が女性の人格を踏みにじり、人間としての尊散を徹底的に奪う行為だということは、言うまでもないでしょう。
「強姦事件の不起訴の理由の約6割は被害者の告訴の取消し」とのことです。これは、被害者がプライバシーを侵害されたり、自分に落ち度があると言われるくらいなら、取り下げてしまおうと思うからです。
最後に、昨年の事件をきっかけに「沖縄・強姦救援センター」ができたと聞いています。だいぶ前になりますが、東京・強姦救援センターが次のようなことを、「強姦に関する神話」として掲げています。実態はどうかという回答は、1990年に「レイプ・クライシス」(学賜書房)にまとめられていますので、読んでください。
【強姦神話の主なもの】
●強姦されるのは、被害者に責任(落ち度・軽率.挑発)があるからだ。
●ほんとうにいやだったら最後まで抵抗できるはずである。
●顔見知りの間では強姦にはならない。合意があったのではないか。
●女性には、強姦願望がある。
●普通の男は強姦など行なわない。強姦は特殊な人間の反抗である。
●性的欲求不満が強姦の原因である。〉
こんなふうに、この後も延々と、私としてはうんざりするやり取りが続く。このMLに参加している2人の女性からは、「同列に扱えない」という意見には反対であるとの発言があった。しかし、それ以外は、男性からの、「同列に扱えない」という意見に「同感である」という意見ばかりだった。それらの意見は、この論議をするうえで、例として山口泉さんや私が掲げた「女子高生コンクリート詰め事件」と言われるものや、映画「告発の行方」(強姦事件を扱ったアメリカ劇映画)などについても、あやふやな記憶と事実認識の間違いを前提にしてのもので、まずそこから指摘しなければならないようなものだった。
また、私の反論の内容についてよりも、「Aさんバッシングである」とか、「断定的」であるとか、「戦闘的」であるとか、例によって「様々な意見が混じり合って世の中出来ているのではないですか?」と論議すること自体を、論議そのものを嫌悪するといったものまで出てくるありさまだ。この論議に登場する男たちには、「同列に扱えない」=「被害者にも非があった」=「加害者擁護の立場」という論理がどうしてもわからないらしい。そして、あれやこれやを並べ立て、決して自分は加害者を擁護するつもりはないし、被害者を非難するつもりはないというのだ。まったく、話にならないとはこのことだと思ったしだいで、腹立たしい数週間だった。
その後も、予想もしなかったさまざまな展開を経た末、結局、山口泉さんは「脱会宣言」を残してMLを抜けた。私もこちらからの発信はいっさい停止することを告げて、ML 上の論議は終わった。
私の「発信停止の辞」から、一部を転載する。
(前略)〈沖縄においては、おそらく、強姦被害者でありながら、そのことを公にできないでいる女性が、他の基地のない地域よりも多いであろうことは、みなさんも察しがつくと思います。であるならばなおさらのこと、その女性たちの傷を癒し、被害を乗り越えて、加害者を告発するためにも、被害者に対して、「あなたは悪くないんだよ」と言ってあげることは、ほんとうはこのMLの役割でもあると思います。それとまった<逆のことを、このMLは行なってしまったようです。
被害にあったことを恥ずかしいことだと思ったり、自分が悪かったのではないかと思っているうちは、決して被害を届け出たり、加害者を告発したりはしないのですから……。
1人の被害者のまわりには、ほんとうはたくさんの被害者がいるのです。まさか、これまで、たとえば、少女で被害にあった人が、昨年の「勇気があった少女」1人だけだと思っている人はいませんよね。(中略)
物事を断定することを嫌う方がおいでのようですが、自分の発言を断定できないような無責任な生き方はしていません。また、これからもしません。
確信をもって断定します。怒りのない人間は、他者の怒りもわからないでしょう。きっと、悲しみや悔しさも、分からないだろうと思います。ましてや、他者の怒りを、椰楡し、訳知り顔で諭したつもりの人間に、このかんの沖縄の「反基地闘争」のきっかけとなった少女のことなど、分かろうはずがありません。〉(後略)
この最後の「発信」では、今後はオーロラ自由アトリエのホームベージに、「性暴力廃絶」のベージを作るので、そちらを見るようにとも言いおいた。
MLはテーマによっては、その参加者は、市民運動や政治運動に参加している人も少なくないようだ。年齢は、20代から30代がほとんどではないかと思われる。つまり、共通1次試験以降の人びとだ。
これは何の根拠もない、何となくそう思うということなのだが、この受験体制は、自分の意見というものを持たない、言葉の持つ意味や論理を理解できない、ただ、断片的な知識を無意味に持ち出して、客観主義的な発言をする、そんな人間を多く排出してしまったのではないかと、思ってしまう。ある事柄と、現象的には違った面をもっている事柄が、実は、その本質は同じだったり、相互補完している関係だったりといった物の見方ができない人が、余りにも多いので、これは深刻な事態だと頭を抱えている。
マークシートをうまく塗りつぶす技術は、人の思考から、総合的に全体を見渡して物事を判断し、それを自らの意見や思想として蓄積していくといったことを、消し去ってしまうのだろうか。
いくつかのML で論議をしてみて、はじめはMLというものの性格に由米することかとも思っていた。しかし、これはなにもML 上に限ったことではないことに気がついた。『蜚語』のバックナンバーを開いてみれば、同じような質をもったことが、過去にもいろいろあったことが分かる。
人寄せに、いわゆる「著名人」を講演者とした集会が増える一方だ。そこで、いかにも「著名人」らしく、とんでもないおかしな発言があったりしても、批判されることもなく、当人はまた別の集会で講師を頼まれたりしている。
「従軍慰安婦問題」に関して、「強制はなかった」発言をした桜井よし子を、横浜弁設士会は、人権賞の選考委員にしているが、この第1回の受賞団体、「カラバオの会」は、それを理由に辞退した。これは近年まれに見る立派な行動だと思う。このことに関して、横浜弁設士会は、特定の人を排除するわけにはいかないと、櫻井良子を選考委員から下ろさないと説明している。「カラバオの会」の代表は牧師だが、宗教者のほうが弁護士より決然としているようでは、この国の裁判というものは、絶望的だ。
ほかにも、たとえば争議団の中での性差別。その多くは、〝争議を解決する〟という目的の前に、「瑣末なこと」として片付けられてきた。
「瑣末なこと」「本筋と関係ない」として、それをめぐって論議することすらされないままに片付けられてきた事柄は、はんとうは、現在進行しようとしているその「本筋」にとって、その質をもっと高いところへもっていくのか、低きで妥協するのかという、重大な問題をはらんでいるものだ。
思えば、『蜚語』を発行しようと考えたのも、そのような現状に何か目に見える形で抗議したり、ものを言っていかねばというところからだった。ここへきて、MLなどというものにまでそうした風潮がみなぎっている事実を目の当たりにして、『蜚語』としても、特集で取り上げざるを得なくなった。
このあと、「グローバル・ブレイン」という「環境・人権」問題のMLでも、よく似た事態に遭遇した。
「カリフォルニア産コシヒカリプレゼント」という情報に対して、「米の輸入自由化策動に、反対します。食糧の自給自足を考える心ある人びとは、このようなものにおどらされないことを願います。日本の稲作、農業を守りましょう。減反はやめて、食糧が不足しているところへ送りましょう。この国がすばらしい自然豊な地域にあることは、まったくの偶然にすぎないのですから……。
これはどう見ても、アメリカの米を日本に輸入させるための、キャンペーンに思います」と、出したところ「輸入自由化反対にではない」とする立場の人びとからの「反論」が寄せられ、論議になっている。
現在、私自身は、碁本的には、ML上では議論をすることを止めようと考えている。そのいちばんの理由は、ある問題をめぐって発言する数人以外の反応がまったく分からないからだ。討論集会ならそれが見えるのだが。
また、そこで議論に加わる人びとが、自らの考え方や意見を表明するということに関して、あまりにもあいまいで無責任だからでもある。何かについて、「反対」や「賛成」の意思表示をすることに、異常なまでの嫌悪感を持っているとしか、言いようがない。したがって、『蜚語』並の意思示をすると、「断定的である」「違和感がある」「賛同を得られない」とか、揚げ句には、「反対の心見を持つ人に対して尊重の念が無さ過ぎる」「反対意見を完全に否定する事はとても危険な事」などといった、発言内容よりも発言形式が問題になる。
したがって、今後は、情報発信の場として使わせていただくということに限定しようと考えている。
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最後のガリ版刷り秘蔵コレクション
③藝大全共闘
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映画評『ナヌムの家』
——日本人がこの映画で、「ホッとすくわれる」ことは許されない
渡邉真樹
製作・監督:ビョン・ヨンジュ 1995年/韓国/96分/16㎜・DVD
この映画は、主として、共同生活する6人の女性を映し出したドキュメンタリーだ。「ナヌムの家」とは、彼女たちが暮らすソウル市内の建物を指している。
かつて、日本軍は彼女たちに「慰安婦=性奴隷」を強制した。日本軍の暴虐は、いまだ癒されない心身の苦痛を彼女たちに負わせている。さらに、朝鮮解放後は、韓国における性差別が彼女たちを苦しめてきた。このため、ごく最近まで、彼女たちは日本への賠償請求はおろか、日本の暴虐の事実を証言することすら憚り、沈黙を強いられてきた。監督、ビョン・ヨンジュは、彼女たちの〔低いつぶやき(原題)〕から、彼女たちの悲しみと怒りに迫ろうとするが……。
東京で右翼とみられる男が上映を妨害した(「朝日新間」1996年4月28日)。そのせいか、後日、私が見た日にも、いくぶん、観客に緊張感があった。しかん、上映が始まると、一転、館内が「和やか」な雰囲気に包まれ、抑えられてはいるが、笑い声がそこかしこから洩れ聞こえてきた。
もし、この映画に、ナヌムの家の女性たちが日本大使館へ抗議する場面や、彼女たち自身が日本人への厳しい批判を口にする場面がなかったなら、日本の観客は、どんなにかこの映画を安心して眺めたことか。これらの場面が併せて映し出されることで、わずかに、観客は緊張感を取り戻していた。
「見て不安になったり自分の人生に疑問を持つような映画をつくりたい」(『「ナヌムの家」パンフレット』パンドラ、以下『パンフ』と略)という監督の抱負とは裏腹に、観客は彼女たちの〔低いつぶやき〕を「好意的」に受け取っている。
彼女たちの〔低いつぶやき〕は、少なくとも日本人を「和やか」にしたり、日本人から「好意的」に迎えられる内容を1つも含んでいないと、私は思う。
例えば、寝そべっている女性の足腰を、もう1人の女性が足を使って揉む場面がある。この時、クスクスという笑い声が館内全体を包んだ。しかし、私には、直視するのが辛く痛々しかった。なにより、日本人の犯した凄惨な暴力の傷痕を示されているようで、居心地が悪く、たじろがずにはいられなかった。
彼女たちの、言動や動作に表れる滑稽さに目を奪われては、彼女たちが被った暴力や苦痛をはかり知ることはできない。百歩譲り、滑稽な所作であることを認めるにせよ、それを無邪気に堪能できるのは当人たちだけだ。日本人までが無邪気に受け取ることは、厳に慎まねばならない。
しかし、その場にいた観客たちは彼我の立場の違いを軽く超越していた。「『戦後日本』に人として生きることの苦難」(山口泉『「祈しい中世」がやってきた!』)とは、なんと無緑であることか。歴史認識と想像力の欠如。これが現在の日本人なのだと、私は書物的な理解を越え事態の重大さに茫然とした。
館内のさざめきぐらいに、そうまで大仰に言い立てることもあるまい、と訝しく思う人もいるかもしれない。しかし、先に述べたことは日本人の常態化した偏向姿勢の当然の帰結であり、さらに言えば、この映画を相当な執念で日本人好みに籠絡させてしまった者たちの成功の証であるとすら、私は思っている。
女性たちの〔低いつぶやき〕と日本の観客の受け取り方との間には、意識の上で大きななズレがある。しかも、監督や日本での配給元〔(株)パンドラ〕も、そのズレを正当化する喧伝を繰り返している。つまり、観客はズレを糺す(糺される)ことなく、彼女たちの〔低いつぶやき〕を自らの耳目に優しく受け取っているのだ。
では、このズレとはどんな偏向に由来するのか『パンフ』の解説では、「この映画に声高な告発はない」と平然と言い切っている。
この国には声高な意見表明を愚弄する習慣がある。人が切迫した状況の中で考え、やっとの思いで発する言葉を、ただ、発言の仕方が気に入らないというだけで侮辱し冷笑すること。そのとき、発言の中身を真剣に問わない卑劣さ。逆に、声高な意見表明と受け取られないことに腐心し、体裁ばかりに気を取られ内容を貧しくすること。そのとき、もはやそれは誰の意見でもなく、『言葉が無力となる(無力にさせられる)。
意見表明する人間の切実さは、本来、声の大小とはなんの関係もない。では、もし、この映画で彼女たちの発言がすべて日本人批判の怒声であったなら、それは聞くに値しないのだろうか。「従軍慰安婦問題」とは、被害者の静かで温和でユーモアに満ちた〔低いつぶやき〕を聞くといった構図で考えるべき問題だというのだろうか。
また、このような恣意的な喧伝は、現に、諸々の事情から声を大にして鋭く日本人を糾弾している人たちと映画の中の女性たちとを、分断することを教唆するようなものだ。
たとえ、彼女たちの発言が〔低いつぶやき〕の形式をとるものであるにせよ、その背後にある苦しみや怒りにこそ耳を傾けるべきなのだ。否、背後どころではなく、事実、そのことが彼女たちの語りの中心に据えられている。ある者は、公衆の面前に立つことの恥ずかしさを語っている。また、ある者は、日本人が嘘をつくことに、「このままじゃいけない」と勇気を奮って名乗り出た事情を語っている。そのような羞恥や迷いを振り払いながら続く彼女たちの証言や日本大使館への抗議行動を考えるとき、その獲得した怒りの深さ、身を賭した勇気、行動の率直さは、安穏とスクリーンを眺めるしか能のない私に、屈辱感と己の非力さをつきつけるものだった。
しかし、どうやら私のような感慨を観客は共有していない。用意してされた水路に水が流れるがごとく、人々は「静かな感動」に涵されていた。これは彼女たちを誤解させる重大な偏向だ。
もう1つ、私が偏向を感じる事は、『パンフ』の対談で、「見え隠れする笑いや、ハルモニたちの欲望の健やかさ」とか、「偉い人でも被害者でもない」「生身の人間がいるってかんじ」「ハルモニたちは聖母マリアじゃない」等と、捉えられていることについてだ。
あるいは、「社会性よりも人間性にこだわった、味わい深い作品」(『ピア』1996年5月7日号)とも紹介されている。
さらに、「この映画にホッとすくわれる思いがするのは、従軍慰安婦というレッテルを張りつけて彼女たちを追いかけまわすのではなく、おばあさんたちのジツはそれぞれに個性的なキャラクターをカメラがしっかりとらえているからだ。」(『パドック』BOX東中野1996年5月号)という具合だ。
人間に具わった深い精神や思想を表し、言薬の本来の意味で人格を示す、humanityやcharacterという言葉が、「人間性」「キャラクター」という日本語に変換されたとたん、人間を他者と識別するためだけの不快な用語と化してしまう。そして、精神や思想とは無縁なだけ、いっそう安直に流布するこれらの言葉。
彼女たちも私と同じ人間だとか、いろんな人間がいるとか、こっちのハルモニは味のあるキャラクターだが、あっちのハルモニは鎌な感じ、といった意見へ導かれていく。しかも、日本人が彼女たちを理解する試みは、どんな境涯の人間にも具わったユーモアや欲望だけが手掛かりというのでは、その感受性の平板さは絶望的だ。
彼女たちと日本人は、けっして、同じ人間にはなれないし、易々と理解し合えたり、何かを共有できるなどということはない。そして、「慰安婦」はレッテルではなく、取り返しのつかない事実である。犯したその事実の前に、日本人がこの映画で、「ホッとすくわれる」ことは許されない。彼女たちが事実を証言することで求めているのは、日本人がする人間性についてのオシャベリではなく、事実に対する責任の自覚と謝罪であり、国家賠償である。
日本人は、日本人として生きねばならない屈辱と非力さをきちんと自覚しなければならない。日本人は、人間性や彼女たちのキャラクターといったところに寄り添わず、社会的モラルや政治的判断を自らに厳しく迫る映画として見る必要がある。
とは言え、私はこの映画を、それ程、よい映画と思っていない。
それは、この映画の中に、前述した偏向を助長させる要因が含まれているからだ。また、監督も日本での配給元もそのことを弱点とは見なしていないし、省みる様子もないからだ。
「加害者である日本に対する怒りではなかった。……〔女性が略奪と暴力の対象になる〕残酪な世界に対する怒り」(『パンフ』〔〕内は引用者)という監督の言薬が紹介されている。監督は、この映画が日本の戦争責任や植民地支配について捉えた内容でもあることを巧妙に避けている。配給元も監督の意図に連動し『パンフ』を作成しており、この映画が女性差別だけを問題にしているかの印象を与える内容だ。
実は、この映画が女性差別だけを強調することで、問われねばならない問題が2つある。1つは、映像表現の問題。この映画に登場したであろうある女性の胸部が、ラストに裸体で映し出されている点についてだ。
この映像は、端的に女性差別的だ。ここに彼女の裸体が挿人される何らの脈絡もない。ある種の男に見る欲望をそそるシーンである。
それだけではない。日本人に凌辱された彼女を、いま再び、裸体で日本人の面前にさらすことに、どれだけの意義があるのか。監督はその構図をどこまで意識できたのか不明である。軽々しくは言えないが、彼女たちの自尊心や民族的誇りを傷つけ、彼女たちの告発を台無しにするのではなかろうか。
さらに、老人差別の印象もある。映画全体の構成において、ナヌムの家の女性たちは日常の〔低いつぶやき〕が多く映し出されるのに対し、中国・武漢で暮らす3人の朝鮮人女性には、赤裸々な告白と慟哭だけが割り当てられている。ナヌムの家の女性たちは現在の日常性が重視され、3人は過去の回想だけである。私は監督が国内では抑制せざるを得なかった、赤裸々な告白を撮るためにだけ、武漠へ行った印象をどうしても拭いされない。
この疑念に絡めて言えば、裸体の映像は、監督の抑制していた欲望を代償した表現ではなかったか。老人とは、過去を刻んだ言葉や身体だけの存在なのだろうか。ドキュメンタリーとは老人をそのように扱ってよいのだろうか。老人にとっての過去・現在・未来が不当に弄ばれているのではないか。
ナヌムの家の女性たちに抑制された映像で通すのならば、武漢の女性たちにもそうすべきなのである。だからと言って、この映画が投げかける主題の重大さを損なうことはない。かえって、映画の進行を予定調和に導いてしまっている。
また、『パンフ』では、「ハルモニたちの〈現在〉と、老いて初めて真の自由を手にする全ての女性たちの〈現在〉が凝縮されている」と、裸体についての解釈がなされている。これは皮肉や痛恨を込めて言われているのならまだ分かるが、誤解を招く解釈だ。老いた女性に対する偏見を導くかもしれない。老いとは、これまで受けてきた苦痛や差別を隠蔽しようとする勢力に最大限利用される徴候ではあっても、真の自由を獲得できるライフステージなどでは、まったくない。
実は、この映画は、女性差別に留まらず、植民地支配、戦争責任、民族差別、経済的貧困、老い、運動の中での知識人の役割、芸術の存在理由、そして、映像表現の問題を、結果として、具体性を欠かずに最低限結合できた仕上がりだと、私は思う。
にもかかわらず、監督や配給元が女性を強調すればするほど、映画全体を矮小化させてしまう。また、女性の過去と身体を突出させる監督の欲望が、
かえって、この映画に弱点を生じさせてしまった。映画の内容は女性差別の問題へ限定され、事実、そのように観客に受けとめられてしまっている。 「従軍慰安婦問題」が監督の思惑以上に多様な問題の集積であることは当然である。結果として、多くの人々が見るべき映画水準であることを認めるとしても、映し出された女性たちの悲しみや怒りと監督の意図とは必ずしも一致していない。私がこの映画を評価しない最大の理由がそこにある。女性が強調される2つ目の問題は、固有に日本的である。女性たちの〔低いつぶやき〕とは対照的に、この映画を収り巻く日本の市民連動は腹立たしいほど意気軒昂だ。上映妨害の抗議の記者会見に右翼の評論家を登場させ、彼にこの映画への「連帯」を発言させる始末だ(『朝日新間』夕刊1996年5月9日)。
なんと卑屈なエネルギーが溢れていることか。
女性の問題ヘ一元化してしまえば、後はどうでもいいということなのか。この評論家の歴史認識や朝鮮認識を問わない「上映妨害への抗議」や「連帯」とは、一体なんなのか。天皇に憲法を守ることを諭される国の市民運動には似つかわしいことなのかもしれない。ここには、市民運動(上映)の成功を得るためには手段を選ばない打算が露になっている。誠実な寡黙さを課されるべきは、ナヌムの家の女性たちなのか、日本の市民連動なのか。
上映運動を支える人々の占有と打算が、この映画のできばえについて、真に評価する場所を閉ざしてしまっている。それは映像の豊富な内容に照らせば、まさに不幸な事態である。これが、私がこの映画を評価する気力の萎える2つ目の理由だ。
現在の状況の中で、「従軍慰安婦問題」に無知(無恥)である人に向かって、「とにかく見ろ」とか、「問題接近への端緒としてはいい」とは言えない映画だ。同時に、この問題に一家言ある人々の位置を精確に測定する映画だ。私の批許は否定的となったが、みなさんはどうだろうか。
(わたなべまさき/1968年生まれ)
☆☆☆☆☆
戦犯たちの幸福な戦後 渡辺真樹
【解説】
「私は、1939年に軍隊に入り、すぐ、中国の山東省に連れていかれ、 敗戦まで6年間、軍人として侵略戦争を遂行していました」小島隆男。
これが上の男である。このような男たちの「証言」なるものが、この数 年、「平和のための」と銘打った集会などで、なされている。
「被害者の話だけでは、戦争とはどのようなものかが分からない」というのが、これらの男たちの話を聞こうという人たちの理由だ。しかし、私は裁判官をやるつもりはない。侵略戦争がどのようなものだったかは、被害者の話を間くだけで十分だ。ましてや、被害者と加害者を同じ舞台に上げて、同じ講演料を払って、証言を聞くというような信じられないような集会が、実際に行なわれているのだ。
私はいまさら加害者の、おそらく割り引いているだろう話なんか聞きたくもない。少し前までは、そこらへんの飲み屋でも、夜行列車でも、 職場の昼休みにさえも、元ニッポン帝国軍人が、手柄話をしていた。
1996年3月、目黒区の社会教育事業として「平和を考える」と題する集 会で、 〝帝国軍人〟の話を聞いた渡邊真樹さん(前ペー ジ参照)が、配られた資料の裏に描いた。的を得ていて、あんまり面白いので、掲載させていただいた。私も参加したが、自らが行なったことの取り返しのつかなさをを、まったく恥じることもない様子には、いささか恐ろしさを感じた。読みにくいので、文字はワープロで打ち直した。 (遠藤京子)
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芸能界井戸端会議
もう何年も前のことだが、何の気なしにテレビを見ると、「しぶがき隊」の解散コンサートをやっていた。この手の男性アイドルグループは、「スリーファンキーズ」以来、お世辞にも歌がうまいとはいえないのだが、この解散コンサートのシブがき隊は、不思議とうまかった。もっとも10代半ばから、歌と踊りだけをやってきたわけだから、解散のころにうまくなるのも、あたりまえといえばあたりまえ。本来ならこれからおとなのヴォーカルグループとして、少しはましなコーラスを聞かせることもできただろうに、日本の芸能界は、目先のドル箱としての価値がなくなったら、ポイと使い捨ててしまう。
「SMAP」は、うまく作られたグループだったけれど、6人揃って、何となく間が持てていたって感じで、森くんがレーサー! になるとかで抜けてから、ひとり、ひとりのアラが目立つようになってしまった。このいきさつには森のプロダクション批判があったとの噂もあって、相変わらずのジャニーズ事務所騒動のようだ。それでも最近は、なかなかのエンタテイナーを頑張っているって感じ。
さて、アイドルといえば女性グループで、小学生を含む4人が歌って踊る「SPEED」。これに関しては、山口泉さんも『世界』12月号で論じているが、 そのデビュー曲は、近ごろで週刊誌だけでなく、一般新聞にまでその現象が取り上げられている中高生の「援助交際」=売春(とどうして言わないのか)の促進PRソングかしら……と思わせるような内容だ。
ところで、最近、中高生の間でも「汚染」が問題となっている覚醒剤のことを、その世界では〈SPEED〉と言っていることを知るに及んで、なるほどと妙な納得!
一方、フィリピンやタイで、ちょうどSPEEDのメンバーくらいの子どもたちが売春を強いられ、心も体もずたずたにされて、その傷みから逃れるための薬物乱用によって、若い命を落としているという現実がある。しかも、日本人男性がそのいちばんの客だという事実を思うと、タモリなぞにちゃほやされて、いい気になって唄い踊りしている彼女らを見ていて、まったくむなくそが悪い。
メーリングリストに、安室奈美恵ファンクラブがあるが、そこでSPEEDに関して出てくる話はざっとこんなふうだ。
安室奈美恵が出たついでに、小室哲哉について一言。安室のデビュー時からのファンだという近所の中学一年の男の子が、最近の歌について、「あんなの歌じゃねえよ」と言っていたらしいが、なるほどと思う。
小室哲哉の曲は、途中で別の曲に変わっても、分からないくらいどれも同じで、女性がただ悲鳴のように叫ぶ。声ができていない歌い手が、高音で叫ぶから聞くに耐えない代物になる。華原朋美や globe の裏声にいたっては、思わず耳をふさぎたくなる。人に聞かせる声じゃない。おまけに音程は常にフラット。
最後に、「PUFFY」。これも、基本的にはSPEEDのように、幼い性が売り物。今はやっている「これが私の生きる道」は、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」と「デイトリッパー」と幼い性が大好きなおやじをミキサーに入れてかき混ぜたようなものだ。そもそもこの2人のデビュー曲やそのイメージ作りが、1960年代後半に新しい文化やファッションとして出てきたものを、いかにも寄ってたかって再現しましたという感じで、不自然そのものだ。作られたサイケデリックに、本人たちは、分けがわからないけど、ともかく言われた通りに「ふり」してますってとこか。
「アジアの純真」批判は次回のお楽しみ。
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数学と自由 湖畔数学セミナー 第9回 永島孝
大学教員の任期制が提案されるなど、日本では、学問に、ことに基礎研究にはますます困難な状況になってきている。そんな中で私がどんな研究をしているのか、今回はそれについて少し述べよう。
電卓とコンピューターとはどう違うか、という問題を考えてみよう。値段や寸法の違いでなく本質的にどう違うかという問いに答えるには、計算とは何かという問題をまず考えねばならない。「計算しなさい」といわれれば子供でも計算するのに、「計算とは何か」とあらたまって聞かれると答えられる人はまれなのだ。人類は太古から計算をしてきたのに、計算とは何かと考えてみたことはあまりないらしい。日頃から何気なくおこなっていることでありながら、たずねられると説明できない、というのは計算に限ったことではない。こういうことを分析してはっきりと答えられるようにするのが学問の魅力の1つだと思う。
実は、専門の数学者の間でも、計算とは何かというこの問題が真剣に考えられるようになったのはようやく今世紀に入ってからのことである。それでは、いったいなぜそれが考えられるようになったのだろうか。今から百年ほど前、数学の中の集合論という分野で矛盾が見つかった。しかも、それは集合論だけの問題でなく、数学の全体におよぶ重大な問題であるのがあきらかになった。
長い歴史を振り返ってみると、数洋という学問は決してつねに安泰であったというわけではなく、それまで蓄えてきた多くの成果をくつがえしてしまうかも知れない危機に見舞われた例が過去にもある。数学をゆるがすそんな「3大危機」の第3が、集合論における矛盾の発見である。
第1、第2の危機にあたっても例えば「数とは何か」というそれまでなおざりにされていた根本的な問題を深く考えることなどで、数学者たちは数学を立て直して危機を乗り切ってきた。第3の危機に際しても、信頼に値する数学を再建するために、数学者たちはつぎのように目標を立てた。まず、数学の中になぜ矛盾が生じたのか、その原因を探る。そして「数とは何か」、「集合とは何か」という問題はもとより、数学の論証でどんな論理が許されるのかということまで徹底的に再検討する。つまり「証明とは何か」、「計算とは何か」ということまでも問題にする。こうして、数学の論理的構造を究明する「数学基礎論」という新たな分野が生まれたのである。
数学基礎論では数学の論理構造を数学的方法をもちいて研究するので、数学基礎論は別名「数理論理学」ともよばれる。この分野の研究の進んだおかげで数学の信頼できる基礎が築かれ、人々は安心して数学を学び、信頼して数学を応用できるのである。むしろ、大多数の人々は数学に危機のあったことさえ気づかずにいるのだが、それは数学基礎論の専門家たちが縁の下で必死に支えていてくれたおかげなのである。
さて、はじめに述べた「計算とは何か」という問題は数学基礎論の基本的な問題の1つとおわかりいただけただろう。1936年にこの問題に対する答がいくつか示された。それらはたがいにまったくちがう答のように見えたのにもかかわらず、本質的には同じ答であることがわかって、問題は解決された。
計算とは何かということがはっきりわかった結果、計算できるか否かを明確にすることが可能になった。人や計算機の能力の問題でなく、原理的に計算できない函数(関数)が発見された。値がはっきり定まっているのにもかかわらずその値を機械的な計位で求めることはできないという、そんな驚くべき函数がいくつも見つかったのである。
さらに大きな成果の1つとして、計算可能なものはすべて「標準型」とよばれる一定の形で表せるという定理がやはり1936年に得られた。そこで、標準型を計算する機構さえ作っておけば、原理的に計算可能なものは何でも計算できるはずである。この考えに基づいて作られたのがコンピューターである。電卓が加減乗除などのきまった計算だけしかできないのに対して、コンピューターはある意味で万能であり、プログラムしだいで何でもできる。
1つの機械が数値計算に使えるだけでなくワープロにも通信機にもゲーム機にもなる。人類がそういう機械を手にしたのは史上初めてのことだが、それは数学を第3の危機から救い出そうという使命をもった数学基礎論の研究成果の副産物なのである。多くの人々が、それと気づかずに数学基礎論の恩忠を受けているのだ。余談だが、この原稿もコンビューターで書いて、インターネットで編集部のコンピューターヘ送ることになっている。
私の研究も数学基礎論で、とくに証明や計算の構造を究明したりそれを応用したりしている。物質を元素に分解して考えるのと同じように、証明や計算も究極の要素に分解してみると、構造がわかってくる。定理の証明にはさまざまな考え方があるけれども、分解してみれば約20種類の要素からなりたっていることがわかる。計算は、見方にもよるが、六種類の要素に分解される。いったんばらばらに分解してみてそれをまた組み立てなおすことによって、いろいろなことがわかるのである。
数学者の仕事というともっぱら計算することと思われたりすることもあるが、計算することよりも計算や証明の構造について考え、問題が計算で解けるのかどうか考えるのが私たち数学基礎論学者の仕事である。
計算は機械にもできるが、計算について考えるのは人間にしかできないことである。考えることを捨てて計算一辺倒になっていく今の学校教育を見ていると、人間性の失われていくのを感じる。
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《ふりかけ通信》第17号
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【編集後記】
【2023年の編集後記】
▶︎この時代に私が遭遇した様々な事柄を、こうして思い出しながらでジルアップの作業をしていると、今日のもうどうしようもないかのように感じる社会は、なるべくしてなったなと思わざるを得ない。
▶︎「重箱の隅をつつく」と誹謗中傷を私に投げかけて来たあなたたちが、もっとこれらの問題とまともに対峙していたら、ここまで酷くはならなかったのではないか……。
▶︎この国「左翼」は、既成政党も、いわゆる「新左翼」といわれた人たちも、戦後民主主義の、決して自らの手で勝ち取ったものでないものに溺れて、右翼民族主義者・排外主義者らを甘く見ていた。
▶︎「日本会議=神社神道」がここまで勢力を拡大し、政府を牛耳るようになって来たのを、なぜ食い止めることができなかったのか。
▶︎「統一教会」も然り。「創価学会=公明党」も然り。宗教という装いに、みな目眩しにあっていた。
▶︎ほんとに、ごく少数のキリスト者・仏教者・新宗教者と何人かの非宗教者が、ささやかな市民の抵抗運動として、彼らのなすことに警鐘を鳴らしていた。「左翼」や「労働組合運動」に関わる人々に、冷笑されながら。
▶︎【marine】というメーリングリストで起こった米兵による強姦事件の論争は、今日ではおそらく、このように表に出ることはないと思うが、実は、内心そう思っている男たち(女も)は少なくないと思う。
▶︎それは、性売買を容認する社会の問題でもある。
▶︎それは、女性にのみ、性的規範を押し付ける社会の問題でもある。
▶︎それらはすべて、この社会は男性が支配し、女性はその支配の許す範囲でなら、自由に活躍してよいという社会の問題でもある。
▶︎性売買を容認する社会を維持するための、芸能活動を若い女性たちが担わされている。それが、この社会の「芸能界」。
▶︎結果、手の施し用がない「水着撮影会」なるものに群がる男たちが、救い用のない醜態を晒している。
▶︎今日では、それらは、親が金儲けのために子どもを「アイドル」に仕立てる児童虐待としか言えないようなものまで、出現している。
▶︎タイトルの写真は、沖縄の国道58号線からの米軍基地。星条旗と日の丸がいつも旗めいている。この日は、星条旗が半旗に。