徳田球一と、K君の父親のこと。
他愛もない物語
K君は、東京南部の公立小・中学校の同級生で、常に学年トップの成績だった。中学1年生の最初の授業で、担任は各自に尊敬する人を書くように命じた。無記名だった。集められた用紙を担任が読み上げていった。ほとんどの回答は、ごくありふれた父親とか、両親とか、誰でも知ってるような偉人とかだった。
一瞬、間をおいて———担任が、「徳田球一を知っている人は手を挙げて」と言った。私は知っていたので手を挙げた。他にもう1人男子が手を上げた。それがK君だった。私は尊敬している人に徳田球一をあげたわけではない。なので、無記名回答は意味をなさなかった。クラスメイトは、K君か私のどちらかだと思っただろうが、私はK君が尊敬している人は、徳田球一だということを知った。
K君の父親が沖縄出身だということは知っていた。小学校の夏休み明けに祖父母のところへ行ってきたというK君が、沖縄の夏の、当時の小学生にとっては未知の国の体験を、みんなにやや自慢げに話してくれたから。
だが、その父親が、中国・八路軍と行動を共にしたことがあるということは、もう少しおとなになってから知った。
K君の母親は元教師で、子どものころは、家に書生のような学生が何人もいて、保護者会の時は、仕事のある母親や当時、獄中にいる父親のかわりに来てくれていたことも、のちにK君から聞かされた。また、自分の姓は父親のものではなく母親のものであるということも。
K君の父親は亡くなるまで日本共産党の党員だったとは思うが、党内では冷遇されているように見受けられた。20歳を過ぎたころ、しばらくの間、私はよくK君の家を訪ねては、父親の話相手となっていた。私自身は、日本共産党とはなんの関係もなかったし、私が当時関わっていた反戦平和運動を、日本共産党は「トロツキスト過激派集団」と誹謗中傷していた。トロツキーの著書を読んだことはあるけれども、私はトロツキストではなかった。
K君の父親は、私が行くといつも、中国での昔話やかつての自分の活動について話をしてくれた。そして、帰りにはいくばくかのカンパをくれて、頑張れと激励してくれた。息子のK君は、成績がよかったので有名国立大学に行き、大商社に就職し、長いこと北京赴任となって不在だった。
この父と息子の中国との関係は、皮肉なものだと思った。
北京から帰国して、日本で暮らすようになったK君から、父親が亡くなったとき、床下から焼酎の空き瓶が山のように出てきたと、聞かされた。
ここまでの話だったら、よかったのだけど、その後のなんとも不愉快な事態が起こった。
中学の同期たちが、じゅうぶん、おじさん、おばさんになったころ、集まりがあった。その集まりの二次会で、私はひとりの女性と口論になった。何かの話の過程で、その女性が「日本が朝鮮を侵略したというけれど、むしろ、鉄道や道路を作ったり、上下水を整備したり、いいこともたくさんやった」というようなことを言った。私はすかさず反論し、それらはみな、自国のためにやったことであり、朝鮮人に対して取り返しのつかない悪行を行ったにもかかわらず、それを、「いいこと」と言うとは、人間として最低だと言った。中学生のときから、よくいる裕福な家庭で、派手なタイプの、意地の悪い女性だったので、おとなになっても変わらないんだとその時思った。
それからしばらく時が過ぎたころ、K君とその女性が結婚したとの噂が流れてきた。K君は既婚者で10代の子どもがいることは知っていたので、不思議に思っていたら、同期会で再会したことがきっかけとなり、その女性とK君はいわゆる「不倫関係」となり、すったもんだの挙句、離婚して、結婚したということだった。いくらなんでも、あの「人間として最低の奴」と……。
私はいわゆる「不倫関係」自体にどうこう言うつもりはない。ただ、あの父親の息子が、よりによって「朝鮮侵略を正当化する」考えの持ち主と……、そして、ある時期まではまともな人間だと思っていたK君なので、残念な思いがするという、他愛もないお話でした。
ちなみに、その中学1年生の時の尊敬する人として私が挙げたのは歴史上の3人の女性だった。その中には、田中ウタも、山代巴も、丹野セツも、菅野スガも、伊藤野枝も……、入っていない。それらの人びとを知ることになったのは、それから何年もたってのちのことだった。