『死の国からも、なお、語られ得る「希望」はあるか?』 山口泉
2022年のコメント
『死の国からも、なお、語られ得る「希望」はあるか?』は、文章と絵が見開きでレイアウトされています。これまでも自著などに挿絵を描いてきましたが、今回の著書は初めての試みです。各テキストは、日本語に加えて、韓国語・英語が併記されています。各地で絵の展示を計画していますが、新型ウイルスパンデミックの影響で、今の所開催を見合わせている状態です。
タイトルの写真は、この本の見開き。
2021年6月19日
7月下旬、オーロラ自由アトリエから、刊行予定!
現在、山口泉さんの新しい著作の制作作業をしている。
一昨年来、彼は絵筆を手にしはじめた。といっても、メインの仕事とはしていなかったものの、自著の挿絵や私が発行していた雑誌に挿画を描いていた。在学中は小説執筆に集中していたとはいえ、東京藝大美術学部に在籍していたころは、それなりに描いていたはずだ。
彼の書く小説やエッセイは、日本語の言葉の持つ意味をあまりにも厳密に駆使しているので、違う言語に翻訳するのはとっても難しいと、かねてから思っていたが、絵画は少なくとも言葉の壁がない。
彼は、今日の、どうにもこうにも狂ったこの国の状況に生きる者として、これまでと違った表現方法として、文章と絵を組み合わせるという試みをはじめた。本来は、原画に文章を合わせたものを、展示するということを目的としたものだけれども、 新型ウイルス禍にあってはなかなか実現が難しい。そこで、いわば「図録としての展示」を先行させようというのが、今回の出版である。
私の仕事は、文章と原画を撮影した画像をInDesign というDTP アプリケーションを使ってレイアウトしていくこと。DTP のおかげで、出版社としては外注に出さなければならない仕事が格段に減ったので、製作費が助かるが仕事量は倍増した。それでも、細かいところまで自分で調整できるので、面倒がないし、納得が行くまでやり直しが出来る。
私が書籍編集技術を身につけたころは、まったくのアナログ時代なので、原稿用紙に書かれた原稿の文字数、行数を数えて、それに従ってレイアウト用紙に指定を書き、画像は暗室で、レイアウト用紙に投射したものの輪郭をなぞって書き込んだものを、印刷会社に送るというような有り様だった。その後、原稿をデジタル化することを下請けとして行なう企業が出来、出版社をはじめた初期の頃はそういう企業にフロッピーあるいはMDというデータ保存をするメディアでやりとりをして、そこから印刷会社にデータが送られる時代もあった。
Macintosh が普及してきて、DTP も自分でやれるようになり、マニュアル本をみながらなんとか習得し、データをMDに保存して、直接、印刷会社に送るようになった。
現在はといえば、遠く離れた沖縄にいても、メールによってデータの送受信が出来る。
私が昔、ライターとして働いていたデザイン事務所には、わざと計算尺や算盤で字数やレイアウト指定の数字を計算するデザイナーがいたけれども、私たちは、それらの器具を使ったことのある最後の世代かもしれない。
と、長々書籍制作のことを綴ってきたけれども、いちばん言いたい事は、今回の山口泉の「画文集」をレイアウトしていて、何度も泣きそうになったということ。それは、綴られた言葉からも、描かれたものからも、どうにもこうにも、どうにもなりそうもないこの国に生きる自分の、言葉にも何にもしようがない気持ちに、彼の表現が寄り添っているからだと思う。
10代からこの国に「まつろわない者」(山口)として生きてきて、さまざまな場面で異議を申し立ててきたものの、その結果が今日、すなわち、命さえも保証されない日々を強いられている。
ほんとうに「殺人五輪」(山口)は強行されてしまうのだろうか。
「東京五輪変異株」の出現に呆然とするしかないのだろうか。
2011年の原発事故による放射能汚染列島に加えて、それから稼働を停止してきた40年以上経った原発の再稼働がはじまろうとしている。もう何が起こっても、不思議はない。
滅びゆくこの国に生きて、私たちは何を「希望」へとつなげればいいのだろう。