会ったことがない祖母のこと
父のアルバムから。
他人の祖母のことなど、興味を持つ人はいないかもしれないけれど、この世にこんな人がいたということを、残すために記そうと思う。写真は父のアルバムからのものだが、何しろ古いので、糊が効かなくなってみな剥がれてしまっている。したがって、いつの写真かというのは、アルバムに父が残したメモから推測した。写真の裏に記さないとこういうことになってしまう。また、写真を残すつもりなら、写っている人との関係を記さないと、残されたものには、誰なのか分からない。たとえば、昔の結婚式の写真など、まったく誰なのか分からない。そういう写真がたくさんある。
「おっかさん」の思い出。
父のアルバムを見ると昭和11年(1936年)に母親の葬式の写真がある。だから、私は父からの思い出話と写真でしか、祖母のことを知らない。普通に結婚して、主婦として過ごした人ではないので、その当時としてはめずらしい生き方をした人だと思う。
父は戸籍上はごく普通に、1組の夫婦の長子として生まれたことになっているが、実際は3歳の時に母親が連れ子結婚したという。3歳といっても、数え年は生まれた時が1歳、正月が来て1歳なので、満1歳くらいだったのだろうか。
なぜそういうことになったのかと、いろいろ聞いた。
奉公先の若旦那と恋仲になったものの結婚は出来ず、実家に帰され出産という話も聞いたような気がするが、定かではない。父が30歳を過ぎた頃に何かと世話をしてくれていた「宮源」という料亭のご主人から、実は父親は実父ではないと打ち明けられて、相当なショックを受けたことが、父の日記にある。それによれば、父が生まれる前に実父は亡くなったようだ。
父の話によれば、祖母が父が養子に出される前日、一晩中赤子を抱いて泣く姿を見かねて、10人姉妹だったという姉妹たちが、自分たちが面倒を見るからと養子に出されずに済んだとのこと。そんな母親に対する思いを、私は何度も、何度も聞かされた。多少生活にゆとりができたので、親孝行ができるのに、残念だと嘆いていた。
祖母は、ほどなく子どもを実子として受け入れる(生まれた時に、出生届は出されていなかった)という人が見つかり結婚に至ったとのことだった。嫁ぎ先は、横浜のたいそう大きな屑鉄屋とのことで、ずいぶんと羽振がよかったらしいが、亭主は道楽者で、麻雀や新内流しにうつつを抜かすような人だったと、父は言っていた。そんなことも影響してか、もしくは、専業主婦に甘んじていることもできなかったのか、祖母は、横浜・鶴見区にあった花月園という遊園地のなかでカフェを運営していた。たくさんの人を使って、かなり忙しく働いていたようだ。
花月園といえば当時としてはそうとう大きなプロジェクトだったようであるから、その中でカフェを運営するというのは、世話をしてくれていた「宮源」という料亭のご主人の働きがあったのだろうと推測する。
子どものころ、この「宮源」という料亭に父に連れられて行った記憶があるが、長い長い黒い塀に囲まれたたいそう大きな料亭だった。
花月園は新橋の料亭花月楼の主人平岡廣高が1914年に開設した。花月園遊園地は、1920年当時「東洋一の遊園地」と呼ばれ「西の宝塚、東の花月園」と謳わていた。敷地内には、観覧車、メリーゴーランド、豆汽車、大山すべりやボート池、つり橋な施設があり、動物園や室内スケートリンク、大運動場まで抱えた7万坪もの広さだ。
父はよく、その当時のことを、母の思い出として話してくれた。家には使用人がたくさんいたので、忙しい「おっかさん」に代わって、自分の面倒はそれらの人たちがみてくれたが、我儘を言って困らせたことなども……。
あまりの我儘ぶりに、幼稚園は3日で退園させられたなども……。
カフェで出していたトーストにバターを塗るときに、当時高価であったため、バターナイフでガリガリとパンの表面をこする程度だったらしいが、そのため、バターというのはパンの表面をガリガリとすることだとずーっと思っていたとか……。
料理人が骨付き生ハムを切る時に、まずナイフを研ぎ棒でシャッ、シャッっと研ぐ時の仕草とか……。
我儘小僧が使用人たちと一緒の食卓で、鯵の開きの血合部分だけをみんなの皿から取ってしまったとか……。
自由恋愛、社会進出……。大正デモクラシーを体現した1人なのかも。
生花の師匠として働く。
花月園でのカフェ運営はいつまで続けていたのかは定かではないが、昭和に入ってから祖母は生花の師範となって、何人かの弟子を抱えるようになったようだ。
働く母親のもとで育った父も、昭和3年(1928年)に神奈川第1中学校(神中)の生徒となり、母親は生花の師範として活躍していたと思われる。
軍靴の響き増す時代に
このちょっと衝撃的な写真は、昭和6年(1931年)頃のものと、父のアルバムに記されている。日本はこの年の9月に「満州事変」を起こし、戦争とファシズムの時代に向かっている。
中央にいる和服姿で銃を構えているのが、祖母なのだけれども、指導する兵士やギャラリーが、祖母に視線を集中している。この写真は以前から見てはいたが、今回拡大してみて、全体の状況が分かった。やらされたのか、祖母が買って出たのか分からないが、物珍しそうな男たちの表情に見える。
これは横浜市の伊勢崎町からそう遠くない地域での様子である。
昭和11年(1936年)は、2.26事件が起こった年である。東京に戒厳令が引かれたのだが、父は富士フイルムに就職したばかりで、東京の戒厳令状態に遭遇したと聞いたことがあるが、くわし話は聞かずじまいだった。
一方、祖父はというと、この当時、麻雀に興じていた。満州事変が起ころうが、2.26事件が起ころうが、ある程度経済的にも安定して暮らしに困ることもない男たちは、こんなふうに麻雀に興じていたのか。
祖母も洋装に。
日本髪に和服姿の祖母だったが、この頃から洋装になっている。しかし、洋装の写真はあまりない。なぜならば、程なく病床に臥せって亡くなったからである。
結局、過労からと思われる腎盂炎で寝たきりの病人となり、抗生物質もない時代、40代で祖母は亡くなった。
祖父は程なく再婚し、父は、その継母との折り合いも悪く、弟が生まれてからはますますその度合いが強くなり、父は家を出ることになったと聞いていたが、祖母が亡くなった年には就職し、翌年には軍隊に招集されている。祖父は父が軍隊にいる間に再婚したようだ。父の軍隊生活は10年近かったようだが、除隊してからも家には戻らず、東京の会社の近くに住んでいた。
父が横浜の生家を出てからは、亡くなるまで、戻るどころか1度も立ち寄ることもしなかったので、戸籍上の祖父という人に私は会ったことはない。
それでも、父は横浜には、家族をよく連れて出かけた。たいていは中華街での食事や伊勢崎町での買い物だった。伊勢崎町の商店街からしばらく山の方に行った先に父の生家があり、そこは川に面していた。川のこちら側に車を止めると河岸のその家がよく見えた。たびたびそこへ行って、様子を伺う父は、「あの家が俺んちだ」と言っていた。でも一切訪ねることもなく、連絡も取らなかった。祖父が亡くなった時も、小学校の同級生から「おまえんちの親父死んだぞ」と電話をもらって、はじめて知ったという。
祖母に関わりのある家はいくつかあって、子どものころはたびたび連れていかれた。
横浜の阪東橋には祖母のいちばん下の妹が嫁いだ缶の製造工場を営む家があり、小さい時からたびたび遊びに連れて行ったもらった。缶をプレスする機械が並ぶ、油で真っ黒になったコンクリのたたきの床を通って、家の玄関にたどり着く、いつも機械油の匂いがする家だった。小さい時は、行けば必ずおもちゃを買ってもらえたので嬉しかった。
大森にも、布団を製造販売している家があり、そこも、祖母の何番めかの妹の嫁ぎ先だった。ともかく姉妹10人だったとのことで、みな嫁ぎ先だった。おそらく家計の助けのために、姉であった祖母は奉公に出たのだろう。
昭和22年(1947年)、父が32歳の時になぜか突然、料亭「宮源」のご主人から、戸籍上の父親が実は実父ではないと告げられたとのことだが、それから20日ほどして実家から、「長男として、籍をぬけ」といわれたと、父の日記にある。
その内容によれば、祖父が再婚した相手の女性とその母親が財産目当てで、長男である父を遺産相続人から外したがったのだと、父は思ったようだ。
この当時の戸籍法がどうだったのか? 「籍を抜く」というのが、婚姻関係でなく、親子関係でも出来たのか? おそらく、遺産相続放棄のことなのだろうと思う。
父が亡くなってだいぶ経ってから、私のところに祖父の孫、つまり、祖父の再婚相手との間に生まれた戸籍上の次男の息子の弁護士から、手紙が来た。遺産の整理をしていたら、祖父名義の株券が見つかり、売却したいが相続人の1人である私の承諾が必要とのことだった。ついては、相続上、法定通りの金額を支払うので、振込先も知らせてほしいとのことだった。金額は数万円であったように記憶している。仰せの通りにした。
タイトルの写真は、祖母の葬儀の花輪が並んだ父の生家。「鐡 銅」という看板が見える。川の対岸側の撮影と思われるが、父は「二度と敷居をまたがなかった」生家の様子をうかがうために、たびたびここを訪れていた。