戦後日本の「魂の救済」
知り合いから「Eテレの思考のオルタナティブ観た? オウム真理教のことがちょっと語られていたよ」と教えられたので、NHK+で観た。わずか30分の番組だったが、戦後の日本社会のなかで「オウム真理教とは何だったのか」ということの要点がわかる内容だった。
番組を観て、オウム真理教にいた当事者として改めて納得したこともあった。1994年から1995年の教団最末期、麻原教祖と教団内部には「アメリカ軍から毒ガス攻撃を受けている」という被害妄想が広がっていて、ほどなくして教団はサリン事件を起こして崩壊していった。
バーマンが言うように、戦後、アメリカ型資本主義によって日本の魂が破壊されたとするなら、オウム真理教内に広がった「アメリカからの毒ガス攻撃」という妄想は、意外に正しく日本の深層を象徴的に映し出したイメージだったかもしれない。
視聴できる期間が過ぎると観る機会もなくなると思うので、バーマンの発言を中心に、オウム真理教事件までの流れをメモしておく。
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Eテレ 思考のオルタナティブ バーマン編
無と向き合う世界観
サブカルチャー史からの特別講義
精神的な空白を埋めるのは『消費』。
空しさを感じたらドレスを買う。あの心理です。
問題は、それには終わりがないことです。
1945年の時点で日本はただのアメリカの植民地になってしまった。
戦後のニッポンの「魂」の不在
なぜなら基本的に1945年以降、日本はアメリカの魂を引き継いだからです。
そしてこれはアメリカ人としての私の個人的な見解ですが、アメリカの魂は空っぽです。
(アメリカは建国以来)誰もが幸福を追求することはお金と財産を獲得することを意味すると理解していました。
それはただ消費主義とせわしなくお金を稼ぐというものです。
自分を省みることなく、ただ盲目的に進んでいくだけです。
そして日本がこれを継承したとき何か根本的なものを失ったのです。
(岡本太郎や三島由紀夫は)基本的に日本はアメリカの資本主義を引き継ぎ、それが日本人の魂を破壊したと感じていたのです。
「空虚」の両義性と向き合うとき
<心の空虚を大量消費で埋めるのがアメリカ型資本主義>
<50年代から60年代のアメリカの禅ブーム>
<西田幾多郎、西谷啓治など京都学派>
(西田哲学によれば)本当の自分自身を見つけるまでは自由になれないということです。
空虚を消費で埋めるのではなく無としてありのままに見つめ、受け入れる。
だが、その無心という心のありようは、注意深くあらねばいつのまにか反転する。
「無心」の哲学は真珠湾攻撃以前に日本軍によって利用されていたのです。
無の思想がひとり歩きし、ねじれたものの見方を生んだのだ。
問題は禅に倫理があるかどうかです。
<無の境地が、単なる虚無へと落ち込まないあり方とは>
<映画『ラスト・サムライ』>
「何も考えないようにしなさい。そうすればあなたは武士になるでしょう」と。これが無心。
重要なのは誰にでもできるということです。
善人であろうと悪人であろうと突然この無心な状態にあることができるのです。
空虚の重要性を認識することが重大です。
<80年代。バブル景気>
<空虚をひたすら消費で埋めるアメリカ型資本主義の渦に呑み込まれていった>
<バブル崩壊した90年代、消費で埋めることができなくなった空虚をもてあましたかのような若者たちの事件が起きる>
<地下鉄サリン事件>
オウム真理教のやったことはかなりひどいことです。
しかし、それはメンバーに精神的な意味を与えました。
そして、サリン事件の後でさえも、村上春樹がカルト関係者にインタビューしたとき、彼らは「私は後悔していない」と答えました。
「メンバーになったことが私にとって唯一の一貫したアイデンティティーだったからです」と。
それでまた本当の自分を見つけるという問題に戻るのです。
1995年から30年経った今でも、日本は村上の発言に耳を傾けようとはしていません。
オタクや150万人の「引きこもり」という社会から身を引いた若者たちの存在は、オウムよりはるかにいい。
持続可能性の観点から、私たちは脱成長社会にならなければなりません。
少ないお金で暮らしながら、オタクがしているように、自分の内面は豊かに育むのです。
したがって進歩と富を別に定義する必要があるのです。
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