信じているとか、いないとか
2011年、東日本大震災があった年の暮れ、16年間逃走していた平田信さんが突然出頭してきました。報道では、彼が取り調べ中に座法(修行のときの座り方)を組んでいるようだから、まだオウムを信じているに違いないと書かれていました。
「座法を組んでいるからって、それはちょっとどうかな…?」と思いました。
翌年、高橋克也さんが逮捕されたときは、彼が座法を組んでいるだけでなく持っていた荷物のなかに教祖の写真や著書があったので、「いまだに麻原とオウムを信じている」と言われていました。
「まあ、そうなんだろうなぁ…」と思いました。
そして、平田さんも、その後逮捕された菊地直子さん(裁判で無罪)も、弁護士を通じて「もう麻原さんもオウムも信じていません」という声明を発表しました。
彼らの思いがどう変遷していったのか、真実はどうなのかわかりませんが、裁判の前にきちんと信仰を否定するという方針だったのでしょう。高橋さんは信仰を否定していませんが、信じていようがいまいが無期懲役は避けられない状況でしたね。
朝日新聞の記者・降幡氏が書いた『オウム法廷』(朝日文庫)のなかに、彼が裁判を傍聴しているなかでびっくりしたことが書かれていました。中川さん(中川智正死刑囚)が法廷でこう言ったからです。
「私は麻原氏の最終解脱を信じていなかった」
私はそこを読んで「あ、それ、よくわかる…」と思いました。
おそらく降幡氏は、教祖が「最終解脱した」と言えば、弟子はそれを盲目的に信じるものだと思い込んでいたのでしょう。私はオウムに入信してから出家しているあいだも、麻原教祖とオウムを全面的に信じるということはありませんでした。「ほんとうかなあ…」という思いはどこかにあって、自分なりに納得するまでは「保留」にしていることがたくさんあったのです。
人がなにをどう信じているかなんて、外からはわからないものです。
蓮華座を組んでいるから、教祖の著書を持っていたから、教団にいるから、オウムを信じているとは言い切れません。同じように、教祖の写真を破ったから、批判しているから、脱会しているから、「早く処刑しろ」と言っているから、教祖を信じていないとも言い切れません。
あるいは「私は絶対、信じている!」と言ったとしても、その人がそう思い込んでいるだけで、実際は違っていたということもあります。反対に、私のように「信じてはいなかった…」と言っていても、私がそう思い込んでいるだけで…ということもあり得ますよね。
本心なんて、自分にもなかなかわからないものです。
オウムのなかでは、天地がひっくり返るように、信が疑に、聖が邪に、善が悪に、尊敬が軽蔑に、栄誉が恥辱に、光が闇に…と、ありとあらゆることが暗転してしまいました。つくづくと、この世には確固たる価値はないんだな、なにもかも変化するんだ。本当にすべては無常だな…そんな思いだけが残りました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?