富士へ⑩降りてくるもの
日本で一番高い山
本州のほぼ中心にあって
遠く離れた場所からでも
円錐形の同じ姿を望むことのできる独立峰
莫大なエネルギーを秘めた活火山
日本人は古来から神聖な霊山として畏れ、崇めてきた――
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富士山が日本人の精神性の象徴だとするなら、その祭神がかぐや姫からコノハナサクヤヒメに代わっていったことは、当時の日本人の意識が大きく変わったことをあらわしているのではないか・・・そんなことをしばらく考えていた。
昇るかぐや姫・降りるコノハナサクヤヒメ
かぐや姫は天に帰っていく「昇っていく」女神である。一方、コノハナサクヤヒメは、アマテラスの命を受けて地上に降りたニニギノミコトと結婚する「降りてくる」女神である。このいわゆる「天孫降臨」神話は、皇室の御先祖が高天原から降りて、この国を豊かに平和に治めていく物語。コノハナサクヤヒメとかぐや姫の物語の向かうベクトルは真逆なのだ。これはいったいどういうことだろうか。
富士の祭神がコノハナサクヤヒメに代わっていった江戸時代は、平和が続き、産業や経済が成長して人口も飛躍的に増加した。江戸の人びとは生きる喜びを謳歌し、現実的で、合理的で、自由な精神を追求するようになる。日本人の意識は、より世俗的になったといえるだろう。この江戸の発展とかぐや姫からコノハナサクヤヒメへの転換は関連があるように思える。
そして、降りてくるといえばもうひとつ、江戸時代中期に食行身禄があらわれたことも似たような現象ではないか・・・と思いついた。
降りてくる救世主
食行身禄は、江戸時代に興隆した宗教「富士講」の中興の祖であり、日本の宗教史上初めて、自ら「みろく」(弥勒菩薩)を名乗った人物である。彼は救世主であることを自認し、富士山で自らの命を犠牲にして(断食死)、イエス・キリストのように世界を救おうとした。
弥勒菩薩とは、仏法が廃れる末法という世紀末に降りてくる救世主(メシア)であり、はるか遠い未来(56億7千万年後)にこの世に降臨するという。2600年前のインドで悟りを開いたブッダ(釈迦牟尼)の次にあらわれるブッダだから「未来仏」とも呼ばれている。
56億7千万年後にあらわれるブッダ? そんな気の遠くなるような未来のことなんて、「あらわれない」といっているようなものではないか。弥勒菩薩はその時がくるまで兜率天という天界で説法しているという。だから、死んだら弥勒のもとに、兜率天に生まれ変わろうと願う信仰が生まれた。これを「弥勒上生」信仰という。
また、弥勒がこの世に降りてきてブッダとなるとき、その説法をその場で聞きたいと願う「弥勒下生」信仰もある。この弥勒下生信仰が極まると、今がまさに末法であり弥勒が救済のために降りてきていると信じて、「弥勒の世」を実現しようと過激な活動をする。よく知られているのは、中国の「紅巾の乱」を起こした白蓮教という弥勒信仰の集団で、この革命によって朱元璋は明王朝を建国した。
三人目の弥勒
弥勒信仰の研究者である宮田登氏は、「日本の宗教社会の中には、弥勒の生まれ代わりと称するものが少なくとも二人出てきていた」と指摘している。「日本の場合には、入定ミイラの中から現れてきた弥勒があった。これは富士行者の身禄という人物であり、もう一人は近代日本の大本教の中で弥勒の生まれ代わりを主張した出口王仁三郎であった。日本ではこの二人が弥勒の化身として代表的である」としている。(宮田登『弥勒』講談社学術文庫)
江戸時代の食行身禄、近代の出口王仁三郎、そして現代、信者に向かって「キリスト宣言」をし、『朝まで生テレビ』を通じて日本全国に「私は未来際にマイトレーヤとして降臨する魂だ」と表明したのが、三人目の弥勒、オウム真理教の教祖麻原彰晃だった。
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わたしは人生のある時期、富士山麓で「解脱・悟り」「救済」というオウムの物語を生きていた。ところが、突然のサリン事件と教団崩壊のなかで、足元をすくわれ、ひっくり返って宙ぶらりん、自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
それからずっと、オウムのなかで語られていた救済物語や輪廻転生譚ではなく、日本の宗教のなかに、オウムという宗教をどう位置づけられるかを探してきた。「富士へ」の旅のなかで、わたしは富士の信仰のさまざまな物語を知った。聖徳太子や役行者の伝説に始まり、富士上人、角行、食行身禄、そして、オウム真理教の教祖麻原彰晃もまたその一人に違いない。
仏教の世界観の中心には、スメール山(須弥山)という聖なる山がそびえている。頂上の上空には雲のようなかたちで夜摩天(第三天界)と兜率天(第四天界)があるとされていて、富士の修行者たちも、聖なる富士山の上方に兜率天という弥勒の浄土を見ていた。
わたしは、富士の信仰の文献を渉猟するなかで、オウム真理教は現代にあらわれた仏教の弥勒信仰であり、そのなかの弥勒下生信仰に位置づけられるという結論に至った。