母たちの国へ29. クンダリニー

オウム真理教とはなんだったのか――私は教団をやめてからずっと考えてきた。

今からちょうど四半世紀前、信者数一万五千人程度の新興宗教団体の幹部たちが、東京の地下鉄にサリンという猛毒を散布して多くの市民を殺傷した。すぐに大々的な強制捜査が入って幹部たちは次々と逮捕され、坂本弁護士一家殺害、松本サリンなど、オウムの犯罪が明らかになった。しかし、首謀者とされる麻原教祖は法廷で事件の動機を語らなかった。裁判の早い段階で精神に異常をきたし、語れる状態ではなかったとも言われている。

オウム事件の動機については、信者のなかでも見解はさまざまだ。
「ヴァジラヤーナの救済だった」「グルが実行犯に仕掛けたマハー・ムドラーの修行」「世紀末にキリストが現われるという予言を成就させるため」「国家転覆のためのテロ」「教団を破壊するため」「オウムは何者かにはめられた(陰謀論)」あるいは「グルには深いお考えがあって、弟子にはわからない」として詮索しない姿勢等々。

オウム事件はごく一部の弟子たちが秘密裏に行っていたので、ほとんどの弟子は犯罪が行なわれていたことも、なぜ行われたのかもわからないままだった。私は、事件はオウムの修行体験と関係があったのではないかと思った。オウム事件にかかわった幹部は、全員クンダリニー・ヨーガの成就者だった。言い方をかえれば、クンダリニーが覚醒して「光の体験」をした人たちだ。このことから、私は自分自身の体験を振り返って、クンダリニーの体験がどのように事件と結びつくのかを考えてきた。

ここで、私の体験の推移と、そこから考えたことをまとめてみたい。

クンダリニーが覚醒すると、自分の内側に声を聴いたり、ヴィジョンを見たり、光を見るといった内的な体験がはじまった。(1)
最初に見た光は瞑想中の渦のような黄金色の光だった。極厳修行では、さまざまな色の光を見るようになり、さらに瞑想が深まると意識が光へ没入する。そして次に、外側の空間に透明な光のきらめきを見るようになった。おそらく「私(自我)」という枠組みがまだ堅固なときは光を内的なものとして体験し、それが崩れるにつれて外側に光を見るようになるのではないかと考えている。

ところで、外界には太陽(もしくは電灯)という光があるのに、「光を見る」ということは、体験がないとわからないことだろうと思う。ここで言う「光」と太陽の光は別のものだ。それは空間に広がる「純粋な光」「透明な光」としかいいようがない。

さて、自我の枠組みがさらに壊れてきたからだろうか、外側の世界のなかに透明な光の波のような広がりを見た。その光には限りない愛、そしてその根底にはかすかに悲しみが感じられた。それに触れたとき、「私」が生きている現実はその純粋な光に映っている蜃気楼のようなものだということ、そして、この純粋な光こそがクンダリニーだということに気づいた。それによって、あまりにも卑小な自我はさらに崩壊へ、つまり死へと向かったのだろう。そうして私は、「死にたい!」という激しい衝動や大きな虚無感に苦しんだのだと思う。(希死念慮・死の欲動)

このように、クンダリニーの体験は自我にとって猛毒のようなものとして働き、自我は自動的に衝動的に「死」へと向かうようになる。この自己破壊的な死への衝動が外側に向かったときに、世界を破壊しようとするのではないか。それが「地球上で最強の毒素ボツリヌス菌を、全世界に風船爆弾で飛ばす」「原爆を作る」「70tのサリンを東京にブチ撒く」「最も毒性の強い化学物質VXガス」といった狂気的で荒唐無稽な破壊計画の数々、そして、ついに実現してしまった「サリン事件」だったのではないだろうか。

クンダリニーという言葉を、私はオウムに入るまで聞いたことがなかった。四半世紀経った今、当時はマイナーだった仏教やヨーガや瞑想は堂々と市民権を得ている。でも、大きな書店の精神世界の本棚を見ても、クンダリニーについて具体的に書かれたものはなく、私が経験をとおして考えてきたことを裏付けてくれるようなものはなかった。それでも、ずっと探し求めてきたからだろうか、私は精神世界ではなく臨床哲学の本のなかで、「死の衝動」と「破壊衝動」が同じものであることを説明されているのを見つけた。
少し難しいけれど引用してみよう。(引用はすべて『臨床哲学の知』木村敏(聞き手:今野哲男)より)

「わたしが注目しているのは、『死の欲動』ということをいいはじめたときに、フロイトがそれをすぐに『攻撃欲動』とか『破壊欲動』とか言い換えていることです。ちょっと考えるとこれはおかしい。死の欲動というのは、自分自身の死へ向かう欲動ということでしょう。ところが、攻撃欲動、破壊欲動というのは、自分以外の他者を攻撃し破壊しようとする欲動のことです。自分自身の死に向かう欲動と、他者を殺そうとする攻撃欲動は、普通の論理でいえば同じものであるはずがない。フロイトは直感や閃きの赴くままに書いたからそういうことになったのでしょうが、わたしは、実はフロイトの直感はまったく正しかった、この二つは端的に同じものだと思っているのです。」

木村氏は、古代ギリシャの「生命」を意味する言葉には、「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあるとして、終わりのある生命「ビオス」と、終わりのない生命「ゾーエー」という概念を使って説明を続ける。以下の引用では、「ビオス」をアポロン的な小文字の世界、「ゾーエー」をディオニューソス的な大文字の世界という言い方もしている。

「というのは、この欲動を、自分の生であろうが他人の生であろうが、いずれにしても個別的なビオスを破壊して、これをビオス以前のゾーエーにまで戻そう、形のある個別の形を壊してしまおうとする欲動と見るなら、自他の別を問わず、アポロン的な小文字の世界からディオニューソス的な大文字の世界へ向かうという意味では何ら変わりがない。自分でも他人でも、あるいは人間以外のものでも、形があればすべて個別性を持っていて、小文字の世界に属しています。
この小文字の世界から、形がなくて個別性のない大文字の世界のほうへ、垂直に抜け出そうとするのが『死の欲動』であり、『破壊欲動』であるわけですね。」

「・・・ビオスというのは個人個人の生、あるいは人間以外の生物でもそれぞれの個体が生きている生命です。それぞれに個性をもって、その人、その個体独自の生を生きている。人間の場合だったら、生命というよりは『人生』とか『生活』とかいったほうがいいかもしれません。かけがえのない、その人だけの生だから、これはこの上もなく大切なものです。生命倫理が叫ばれるのも当然でしょう。ビオスには終わりというものがあって、死んだらそれで終いですから、大切にしなければなりません。
これに対して、ゾーエーには終わりというものがありません。ケレーニイは、『ゾーエーは死を知らない』といっています。これは、それぞれの個性的な個人の生が生まれてくる以前の、まだ一切の個別性を知らない、だから有限性も知らない、ビオスとは異次元の『生命の根源』のようなものです。」(3)

木村敏氏が語る「形がなくて個別性のない大文字の世界」「終わりというものがない。死を知らない」「異次元の『生命の根源』のようなもの」という「ゾーエー」、私はこれこそがクンダリニーではないかと思った。また、神話学者のケレーニイが、ギリシャ神話のディオニューソス神は「ゾーエー」の化身であると論じていることも紹介していて、「ああ、なるほどな」と思った。なぜなら、古代ギリシャのディオニューソスとインドのシヴァは、どちらも男根(ファルス)によって象徴される「創造する力」「死と再生」を支配している神だから。これはオウムの主宰神であるシヴァ大神が有する資質でもあると私は考えている。(2)

オウム真理教は、麻原教祖のシャクティーパットによるクンダリニーの覚醒からはじまった宗教だった。私はクンダリニーというエネルギーは、いろいろな宗教がさまざまな言葉で指し示している宗教の本質ではないかと思っている。このクンダリニーの体験をなんとか言語化しようとしてきたが、力及ばず最後は木村敏氏の著書に助けてもらった。私にとって木村氏の言葉は、オウムという迷宮の扉を開く最後の鍵だった。

そして、いつものように全くの偶然なのだが、木村敏氏は、私をオウムに導いた兄と同じこの地域の高校の出身だった。「まさか、そんなことが?」と信じられなかった。私は木村敏という名前を知っているかもしれない従姉に電話をした。

「木村敏というすごい哲学者がいるんだけど、高山出身らしいんだよね。知ってる?」

長らく看護学校の教師をしていた従姉は言った。

「木村敏先生知っとるよ。敏先生のお父さんは、N病院の院長先生を長く勤めなさった方なんやよ」

N病院は母が倒れて救急搬送されたところだった。私は一年近くほぼ毎日通っていた。あそこにはあまりにも辛すぎる思い出があるから、母が亡くなってからは「もう二度と行かない」と心に決めていた。

なんだか、はじまりと終わりがつながったような気がした。


(1)クンダリニーの覚醒は、イニシエーションや修行によって、あるいは薬物、アルコール、強いストレス、病などをきっかけとして意図しないで起こるとも言われている。統合失調症の発病と区別することは難しい。
(2)オウム真理教の主宰神シヴァ大神については「シヴァ・ビンドゥ09」参照。
(3)木村氏は、イタリアの哲学者アガンペンについて「アガンベンはゾーエーをわたしとはまったく違った意味に解釈しています。彼もビオスについては、やはりそれが個々の個性をもった生命、あるいは人生だと考えているのですけれども、ゾーエーのほうは、そういった個性的なビオスがただ単に動物的な意味で生きているというだけ、まだ死んでいないというだけの、つまり『剥き出しの生』の意味で使うのです。」と指摘している。

※同書で木村氏はこうも言っている。「しかし、ゾーエーがけっして死なないということは、ゾーエーが生きてもいないということでもあります。つまりゾーエーは、大文字の<生>であるだけでなく、大文字の<死>でもある。それはすべてのビオスが、つまりあらゆる生きものの有限な生が、そこから生まれてきて、死んだらまたそこへ還って行く、そんな場所のことだと考えることができます。『生の躍動』というような活発な動きとしてこれを捉えただけでは不充分なところがあります。ゾーエーは、仏教でいう『空』に近いものでもあるようにも思うのです。」

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