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カルトの経験に思うこと

※ここでカルト、反社会的カルトという言葉は「社会問題を引き起こす閉鎖的集団」という意味で使っています。

カルトの「外」と「内」

安倍元首相の銃撃事件をきっかけに(旧)統一教会に注目が集まっている。有田芳生さん、紀藤弁護士など、元オウム信者には懐かしい面々が反カルトの立場で語っているのを見ていると、なんだか遠い昔を思い出してしまう。

ワイドショーで有田芳生さんが「統一教会の信者は、みんな真面目でいい人たちなんですよ」と言っているのを聞くと、「そりゃそうだよね」と思う。一般には、信者は騙されて、強制されて、洗脳されて、お金をむしり取られている可哀そうで無知な人たちだと思われがちだ。しかし、精神(魂)の救いを求めて宗教に入り、財産を献金(布施)する、自分の生活を犠牲にしても献身する人たちが、純粋で真面目で良い人たちなのは当然で、それはオウム真理教の信者も同じだった。

カルトの問題には、このような集団の「外」と「内」の認識の違いが横たわっている。外からはカルトの中に苦しみを見てしまうが、内にいる人たちはカルトの中で喜びを感じている。この大きなギャップを理解しないまま、「マインドコントロール」とか「洗脳」という言葉でわかったつもりで信者を説得し、脱会させようとしても、失敗するか、一度脱会しても舞い戻るか、また別のカルトに入ってしまう等々、カルトから解放する援助は難しい。

カルトを脱却する難しさ

私自身オウム真理教に脱会届を出してからも、本当の意味でオウムを脱却できていない感じを長く引きずっていた。それを乗り越えたいと思って、さまざまな本を読んできた。反カルトを掲げる人たちの書籍やホームページも読んでみたが、「カルトは恐ろしい」「騙されている」「マインドコントロール」「洗脳」といった言葉が出てくるたびにギャップを感じた。マインドコントロールはその通りだとしても、カルトの問題の核心は「そこじゃないのでは…」と思う。

私は「オウムから完全に脱却できていない」という感覚が残っているのは、教団にいて感じた喜びや、真実(真理)に触れているという実感の本質を、オウムの宗教用語(教義)以外の、普通の言葉で言語化できないためではないかという気がしていた。

前回記事で紹介したリンドホルムの『カリスマ』は、「人間には自我の限界を脱出しようとする深い願望がある」ということを論証している。カルト的宗教集団の中で信者たちは、このような深い願望に突き動かされ、自我の限界、自我という牢獄から脱出しようとしてあらゆる形の献身を喜んでする。これがカルトにはまり、そこから抜け出せない根本的な理由ではないかと思う。オウムではそれを「解脱」への欲求と言っていた。

破滅的結末への歩み

統一教会もオウム真理教も、信仰対象(神)があり、教祖がいて、教義(教典)によって目指す世界が提示されている一つの宗教だ。あんな集団は宗教ではないと言って、統一教会を「犯罪組織」だとか、オウム真理教を「テロ組織」だとか糾弾することはあまり意味がない。それどころか、新興宗教がカルト化していくこと、集団の閉鎖性が強まるきっかけは、社会からいわれなき迫害を受けていると信者が感じるときであることが多い。外部から叩かれれば叩かれるほど閉鎖性は強まり、危険な集団へと変貌していく。

人は宗教集団の中で「変性意識状態」に入りやすくなるが、集団の閉鎖性が強まるとその傾向は一層進んで、誇大妄想や被害妄想が強まり、予言や陰謀論が好まれ、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)の多発、神秘的な体験の深まり、幻聴・幻覚といった非現実世界が、集団内部で生き生きとリアルに展開するようになる。

宗教的で反社会的価値観に身を投じている人たちが、閉鎖集団の中で強い変性意識状態にあることは極めて危険なことだ。このような状況の胎内から、死、破壊、破滅へ向って「突っ込め!」と言わんばかりの考えが飛び出して人を駆り立てていく。そして、いったんこのような死の衝動にスイッチが入ってしまうと、事態は雪崩のように進んでいって、もはや個人が状況を合理的に判断したり、まして止めることなど誰にもできようがない。

マンソンファミリー、人民寺院、ナチス・ドイツ、大日本帝国など、カルト的集団や、全体主義的国家が、自滅や虐殺など破滅的結末へと突き進んでいった例は枚挙にいとまがない。それぞれの集団の規模は違っていても、終末期に漂っていた空気、聞こえてくる声の響きは似通っていて、深く濃い死の翳に彩られている。かつて私が経験したオウム真理教の最期も同じだった。

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