インプットにおけるあるべき判断力批判
「インプットはどうあるべきか」
この問いは数多によって述べられてきただろう。その中の一つに私の意見も混入させたい。
だいそれた題と前振りをしたがいつも通り只の思いつきで述べる。
インプットとアウトプットは表裏一体であると言うが、同意見である。
より具体的に言うと、インプットの中にアウトプットがあると考える。
アウトプットがインプットの中にあると言うことは、単純に言ってインプットの方が何らかの形で大きくなければならない。
そのため、大量のインプットをあるべき姿として提示する。
良いものとは何か、この問いに解を与えるには、作品やモノそれ自体を鑑賞する必要が出てくる。
それ自体までにリーチを広げるにはどのようにすれば良いか。
それは自分の持つバイアスを自力で一つ一つ取り払うことである。
よくあるバイアスを無くそう、と言う話をしたいわけではない。
バイアスが存在しない認識などと言うものはあまり信用していない。
バイアスがありうることを認識することはかろうじて出来るだろう。
とにかく、つまり言いたいこととしては、インプットに対して質を求めるのではなく、雑多性を追い求め、本来なら自分がみない、好まないモノにリーチを伸ばそうと言うことである。
ここにおける雑多性を手軽に手に入れる方法の一つとして、自分が偏見を持っている対象に向けると良い。
自分との異文化、あくまで例だが、宗教だったり、同性愛の世界だったり、自分に広がっていなかった世界だ。
勿論これは人によって異なる。
少し別の視点で述べるとすれば、偏見の持たれやすい分野が良いのかもしれない。
アフリカなど自分が経験的にあまり知らない部分が主にそれに当てはまるだろう。
インプットの指針が立てば、後は批判だ。
徹底的にその作品を批判せよ。
しかしただ批判すると言われても迷走するしか無いかもしれない。
具体的に言うと、『良い』と思う瞬間の感度を高める、その後、なぜ良いと思ったのか徹底的に判断、批判を行うと言うことだ。
そこにはどれだけ時間をかけても良い。
このように私はインプットしている。何年も続けているが、『感性』は非常に磨かれると思うが、その反対に、膨大なインプットの弊害により名称があまり覚えられていないのは難点である。