試作_0923_3

 雨が激しく窓を叩く音が、部屋の静けさを包んでいた。
 
 僕達はソファに並んで座り、テレビをぼんやりと眺めていた。でも、意識はそれほど集中していなかった。
 
 シルヴァンが僕の家に遊びに来るのは、実はそんなに珍しいことじゃない。彼の独特なセンスが好きで、僕の部屋のインテリアにも少しアドバイスをもらったことがあるくらいだ。
 
 「雨、すごいね。」
 
 僕は窓の外を見ながら、なんとなく呟いた。街灯がぼやけて、雨が白く霞んで見える。こんなに強く降ると、外に出るのは厳しそうだ。シルヴァンは黙ってテレビを見ているが、耳は僕の言葉を聞き逃さないはずだ。
 
 「シルヴァン、今日は泊まっていく?」
 
 僕はなんでもないことのように言った。外に出る必要はないし、むしろ危ない。
 
 僕の家は広くないけど、シルヴァンなら大丈夫だろう。それだけを考えていた僕は、彼が提案をどう受け取るかは、正直あまり考えてなかった。
 
 その瞬間、シルヴァンの目が鋭く僕に向けられた。まるで獲物を狙う狼のような、そんな視線だ。僕は一瞬、息を呑んだ。
 
 「本当に泊まっていいのか?」
 
 シルヴァンが低い声が響く。
 
 「そ、外は雨が強くて危ないから…………。」
 
 僕はなんとか落ち着いた声を出そうとした。
 
 しかし、次の瞬間、シルヴァンが僕を引き寄せた。
 
 いつもなら決して許されることのない物理的な接触が、今は違っていた。彼の腕が僕の背中を包み込む。その圧倒的な存在感に、僕は身動きが取れなくなる。
 
 「襲ってもいいのか?」
 
 彼の囁きが耳元で響く。冗談とも、本気とも取れる声色だった。
 
 僕は一瞬、言葉を失った。この展開はまったく予想していなかった。シルヴァンがこんなことを言うなんて――――。
 
 「じ、冗談?」
 
 僕は半ば笑いながら、彼の腕を軽く押し返そうとする。
 
 しかし、彼の腕は緩むことなく、逆に少しだけ力を強めた。その瞬間、僕の心臓がドクンと大きく跳ねたのを感じた。
 
 「どうかな?」
 
 彼の声は穏やかで、けれどもどこか不気味なまでに自信に満ちていた。
 
 僕は視線を逸らし、必死に冷静を保とうとしたが、顔が熱くなるのが分かる。今まで、シルヴァンがこんなにも近く感じたことはなかった。
 
 「だ、駄目に決まってるでしょ!」
 
 僕は視線を戻し、場の空気を冷えたものにしないように、声を出す。しかしながら、シルヴァンの目は微笑み返すどころか、さらに真剣さを帯びていた。
 
 「泊めてくれ。」
 
 シルヴァンはようやく僕を解放し、いつもの冷静な表情に戻った。僕は少し肩の力を抜き、ため息をついた。
 
 「んっ。わかった。」
 
 なんとか冷静を装いながら、僕は部屋の奥に向かった。シルヴァンが冗談を言っただけだと、自分に言い聞かせながら。
 
 ◇
 
 シルヴァンをベッドに寝かせた後、僕はリビングの隅で布団を広げる準備をしていた。
 
 気を遣う僕に対して、シルヴァンはベッドを使えと言ってくれるけど、僕としては客人を床に寝かせるわけにはいかない。
 
 「ふぅ、これで大丈夫かな…………。」
 
 布団を敷き終え、一息ついた瞬間、シルヴァンの低い声が静寂を破った。
 
 「何故、一緒に寝ないんだ?」
 「え?」
 
 僕は思わず振り返った。シルヴァンはベッドに横になり、枕に腕を組んで僕を見つめている。暗がりの中でも、その鋭い金色の瞳がしっかりと僕に向けられているのがわかる。僕は一瞬言葉を失った。
 
 「何故って…………、二人で寝るには狭いからだよ。」
 
 どうにか言葉を絞り出すものの、シルヴァンは全く納得していないようだった。むしろ、その視線がどこか悪戯っぽく、僕の動揺を楽しんでいるかのようにさえ見える。
 
 「密着すればいいだろう。」
 「そ、それは――――!」
 「俺は気にしないぞ。」
 
 シルヴァンの言葉はいつも通りの落ち着いた声だったが、その提案が妙に大胆すぎる。僕は心臓が少し早くなるのを感じた。
 
 「別々で寝ます!」
 
 慌てて言い返しながら、シルヴァンが何を考えているのかを読もうとする。
 
 彼はいつも冷静で落ち着いているけど、時々、こうやって僕を揶揄するようなことを言ってくる。今回もその一環だろうか。それとも――――。
 
 「まあ、君がそれでいいのなら。」
 
 シルヴァンは肩を竦めて、目を閉じた。それを見た僕は、少し安心した。そして、ようやく布団に横たわった。
 
 だが、妙に意識してしまう。シルヴァンがすぐ近くのベッドに寝ているという事実を。
 
 「…………。」
 
 静寂が戻り、外の雨音だけが聞こえる。けれども、僕の頭の中は完全に静かにはならなかった。シルヴァンの言葉が何度も頭の中で反芻され、眠気が遠ざかっていく。
 
 『何故、一緒に寝ないんだ?』
 
 再びその言葉が脳裏に浮かび、僕は目を閉じたまま、そっと溜め息を吐いた。
 
 (シルヴァン、何を考えてるんだよ…………。)
 
 寝るなんて、簡単なはずだったのに。
 
 ◇
 
 ◇
 
 ◇
 
 外の雨音が規則的に窓を叩いている。
 
 俺はベッドに横たわり、天井を見つめた。どうにも眠る気が起きない。普段なら問題なく眠れるはずなのに、今日は違う。
 
 理由は、すぐ隣にいる朦依だ。
 
 薄い布団に包まって、やっと落ち着いた様子の朦依は、まるで気配を消すように静かだ。しかし、その静けさがかえって俺を落ち着かなくさせていた。耳を澄ますと、彼の穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。
 
 「やれやれ…………。」
 
 俺はそっと溜め息を吐き、無理矢理、目を閉じた。だが、朦依の寝息が耳に届くたび、体が反応してしまう。
 
 彼があんなに近くで、無防備に眠っているのを意識するたび、胸の中に奇妙な感情が渦巻いてくる。自分でも理解しがたい、抑えきれない衝動。彼を襲うつもりはない。だが、距離が近すぎるのも事実だ。
 
 本当は、一緒に寝ようと提案したのも、朦依がどんな反応をするのか試してみたかっただけだ。しかしながら、いざ彼がすぐ隣で眠っている状況に直面すると、冗談では済まないことに気づかされる。彼の寝顔を見たわけでもないのに、その姿を想像するだけで心が落ち着かない。
 
 「――――、こんなに無防備に眠れるなんてな。」
 
 俺はそっと頭を振った。朦依は、俺がこうして彼を見守っていることに全く気づいていないだろう。むしろ、俺がどれほど我慢しているかなんて、夢にも思っていないはずだ。
 
 寝息がまた聞こえた。彼の呼吸のリズムが心地よくて、どこか安心感を覚えるはずなのに、それが逆に俺の眠気を遠ざける。俺の心の奥底で、何かがざわついているのを感じる。いつもなら、こんな感情を表に出すことはないが、朦依に対しては違う。触れたくなる衝動が強くなる。
 
 「まったく…………。」
 
 俺はベッドの端に手を伸ばし、少し体を起こしたが、すぐにまた横になった。余計なことはするな。そう自分に言い聞かせる。朦依に手を出すなんてあり得ない。俺はその程度の自制心は持っている――――。
 
 彼がここにいるだけで、これほど眠れなくなるとは、正直、予想外だ。雨音が更に強くなり、外と部屋の境界を強く感じる。
 
 朦依の寝息だけが、俺の耳をくすぐるように続く。
 
 今夜は、眠れそうにない。
 
 ◇
 
 ◇
 
 ◇
 
 翌朝、僕は目を覚ますと、部屋はまだ静かで、薄い光がカーテン越しに差し込んでいた。雨は止んでいるみたいだ。布団の中で体を伸ばしながら、ふとシルヴァンのほうに目をやると、彼はまだ眠っているようだった。
 
 「…………。」
 
 シルヴァンの寝顔は、いつもと同じ冷静な表情だったけど、どこか安らいでいるようにも見える。普段のきちんとした態度とは違い、少し無防備だ。僕はその姿を眺めながら、ふと気づいた。
 
 掛け布団から、シルヴァンの手がはみ出している。そして、指先には、肉球が――――。
 
 シルヴァンの手は獣人特有のもので、狼の爪や指が人間のそれとは少し違う。そして、彼の手の平には、可愛らしい肉球がついている。それに気づいた瞬間、僕の心が一気にざわついた。
 
 (かわいい…………。)
 
 思わず、声に出してしまいそうになる。
 
 いつも冷静で落ち着いた彼にも、肉球はある。そんな当たり前のことに胸を高鳴らす。
 
 僕は枕元から手を伸ばし、そっとその肉球に触れてみた。むにっとした柔らかさが指先に伝わってくる。その触り心地に驚きながら、僕はもう一度、恐る恐る触れてみる。今度は少し長めに指を押し当てた。
 
 (やっぱり、かわいい…………。)
 
 何度もそっと触れては引っ込めるのを繰り返しているうちに、ついに肉球をすっかり魅了されてしまった僕は、今度はもっと大胆にその感触を楽しもうとした。
 
 しかし、ふと顔を上げると…………、シルヴァンの顔がこちらを見ている。その表情は、まるで怒っているような――――。
 
 いや、間違いなく怒ってる!
 
 「いや、これは、その――――!」
 
 僕は慌てて言い訳をしようとしたが、次の瞬間、シルヴァンの手が僕の手首をしっかりと掴んだ。逃げる間もなく、その力強い手に引き込まれ、僕はあっという間にベッドに倒れ込んでしまった。
 
 「何をしているつもりだ?」
 
 彼の声は低くて、まだ半分寝ぼけているようにも聞こえるけど、確実に怒っている。僕は驚きと焦りで顔が真っ赤になった。
 
 「いや、その、シルヴァンの手が出ていたから――――!」
 
 ただ、触ってみたかった。
 
 言い訳にもならない言葉を必死に絞り出す僕を、シルヴァンは冷静な目でじっと見つめていた。僕はそのままベッドに引き込まれたまま、彼の手の中に捕まって動けない。
 
 「…………、肉球がそんなに気になるのか?」
 「うん…………。」
 
 仕方なく正直に答えると、シルヴァンは軽くため息をつき、少しだけ力を緩めた。
 
 「次からは、勝手に触る前に言え。」
 「ごめんなさい。」
 
 僕はまだ赤くなった顔を隠すように俯く。
 
 (肉球、かわいかったんだよ。)
 
 ◇
 
 シルヴァンに言い訳を終えて、ようやく解放されるだろうと思った瞬間、彼の手の力が緩むどころか、逆に僕をしっかりと抱き寄せてきた。
 
 「え、ちょっと、シルヴァン?」
 
 戸惑いを隠せないまま、僕は体を固くした。しかし、彼は無言で僕を抱きしめたままで、離れる気配は全くない。その大きな腕が僕を包み込んでいて、まるで逃げられない。
 
 「シルヴァン、近い…………。」
 
 声に出してみたものの、彼は答えず、ただ静かに僕を抱きしめ続ける。
 
 距離が、あまりにも近すぎる。僕の呼吸がシルヴァンの肌に届いてしまうのがわかるくらいだ。
 
 彼の胸に顔を押しつけられ、逃げ場がない。彼の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
 
 シルヴァンの匂い…………。いつもはあまり気づかないけれど、こんなに近いと、それが心地よく感じられる。少し木の香りが混じったような、落ち着く香りだ。僕は思わずその匂いに意識を向けてしまう。
 
 「…………。」
 
 どうして抱きしめたままなのか、理由を聞きたいのに、何も言えない。シルヴァンの温かさと、この異様に近い距離感に、僕の心臓がどんどん速くなっていく。彼の匂いに包まれたまま、言葉が出なくなってしまった。
 
 「シルヴァン…………?」
 
 もう一度彼の名前を呼んでみたが、やはり返事はない。ただ、彼の腕が緩むこともなく、しっかりと僕を抱きしめ続けている。どうしようもない感覚と、この奇妙な安心感に、僕はただ黙ってその温もりに包まれるしかなかった。
 
 ◇
 
 ◇
 
 ◇
 
 朦依を腕の中に捕らえたまま、俺は静かに考えていた。
 
 ベッドの上で彼がこんなにも近くにいるのは、正直、予想外だった。普段なら距離を保っている彼が、今は自分から俺に近づいてきた。肉球に触れたくて、だなんて言い訳をしながら、まるで無意識に俺に近寄ってきたのだ。
 
 俺はいつも、自分の感情を抑え込んでいる。まだ、朦依と一緒に寝るなんてことは、彼の心がついていかないとわかっていたから。無理に進めるつもりはなかった。彼には時間が必要だし、俺も焦るつもりはない。
 
 だが、今は違う。彼は自ら近づいてきた。そして、今この瞬間、ベッドの上で、俺の腕の中にいる。彼がこの距離感を拒んでいるわけではない。それどころか、ほんの少しだけだが、彼が俺の匂いを嗅いでいるのがわかる。
 
 「…………。」
 
 俺は彼を強く抱きしめたまま、彼の体温を感じ取っていた。まだ、この瞬間を大切にしたい。焦ってはいけないと自分に言い聞かせながらも、朦依が少しずつ俺に引き寄せられていることを感じる。
 
 朦依は、きっと自分の気持ちに気づいていない。けれど、俺は分かっている。彼が少しずつ、俺に魅了され始めていることを。
 
 (少しずつだ…………。)
 
 俺は心の中で呟いた。急ぐ必要はない。彼の心が完全に俺のものになるまで、俺は待てる。それまでは、この距離感を大切にしながら、少しずつ、彼の心に入り込んでいく。
 
 (君を、魅了して…………。)
 
 静かに朦依を見つめながら、俺の心には一つの決意が生まれていた。少しずつ、確実に、彼の心を奪っていく。そして、最終的には、完全に手に入れる。
 
 (そして、食べてしまおう。)
 
 まだ彼が眠るまで、少し時間がかかりそうだ。だが、このまま彼が安心して俺の腕の中にいる限り、俺の勝利は時間の問題だ。

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