僧侶としてのダルヴィッシュ 2019.12.17
彼との思い出は、私がまだ小学生の低学年だった頃に遡る。
父とふたりでよくキャッチボールをしていた私は、家に帰れば巨人戦の中継を9時24分まで目をさらにして見る、春と夏の休みには欠かさず甲子園を観戦する、意外にも(とつけざるを得ないが)野球少年だった。
地元の小学校に通っていなかった私が、同じマンションの同年代の少年たちと唯一コミュニケーションを取れるのは、隣にあるだだっ広い公園での野球を介してだった。まだ名古屋に住んでいて、近くの熱田球場にひとり出かけていっては愛知県大会の3回戦くらいを観戦して、あまり水を飲まないので夏風邪を引いたりしていた。あの頃はくる日もくる日も余裕に溢れていて、余裕のことを考えることなんてほとんどないくらいだった。
そんな私のヒーローといえば、プロ野球では高橋由伸、高校野球ではダルビッシュ有だった。打席での立ち姿が好きだったヨシノブはテレビを通して、後者は中継はもちろん、甲子園が終わるたびに母親が買ってきてくれた特集雑誌を通して。
ああいう雑誌には妙な魅力があった。全編カラーで、すべての試合がA4見開きにまとめられていた。その試合を左右した重要な一瞬が大きな写真に収められて紙面を飾り、その傍らにはたいてい、負けたチームが好守備を見せたときの写真が小さく載せられていた。すべてのページ、末尾に細かいデータを収めた付録に至るまで、舐めるように読んだ。
2003年。ダルビッシュ有は東北高校の2年生エースとして夏の甲子園準優勝。すでになの知られていて人気のあったダルビッシュに優勝して欲しかったであろう思いが見え隠れする記事では、決勝タイムリーを打たれた瞬間の悔しそうな写真が、控えめな大きさで下の方に載っていた。
両腕を前後に広く伸ばしてから投げるあの優雅なフォームとか、端正な顔立ちとか、スリムさとか、そういうものに憧れていたのだと思う。東北高校の、白地に黒のピンストライプのユニフォームも好みだった。
中学受験をするという路線が家族内では固まりつつあったのだが、高校からは東北高校に行くのだと言って周りを驚かせたこともあった。
2004年の夏、同じく野球好きで孫を連れ回すのも得意な祖父が、なんと神戸まで連れていってくれた。今思えば加古川生まれだった祖父にとっては、帰郷も兼ねていたのだった。当時の私は、甲子園は大阪にあると思い込んでいて、大阪をすぎてもまだ電車に乗っていなければならないのが不思議でしかたなかった。
駅からしばらく歩いて、壁を這うツタが見えてきたときの、風に乗ってアルプスから声援やブラスバントの音が聞こえてきたときの、高揚感。もちろんその日の第二試合、東北高校対熊本工業が目当て。中に入るとまだその前の試合をやっていた。ひときわ耳に迫ってくる声援と、かちわり氷の売り子の声と。あまりに広くて何もかも白くて、何を聞き何を見れば良いのかわからなかった。
その試合、ダルビッシュは絶好調だった。みるみるうちにアウトを重ねていった。お世辞にも強打とは言えない打線も、なんとか点をもぎ取っていた。
結果は2−0、なんと熊本工業に一本のヒットも許さなかった。
自分のことのように鼻を高くして、売店では「東北高校」と印字されたケース入りの硬球をねだって買ってもらった。ボールには、祖父の細かい字で、「東北高校2−0熊本工業 ダルビッシュ10年ぶりのノーヒットノーラン達成」と書き込まれた。
でも、その年の甲子園でも負けてしまった。千葉経済大附属高校との三回戦、延長戦で最後の打者は彼だった。ひょろりと長い体で低めの球を振り、三振。直後の、気まずそうな、悔しそうな、なんとも言えない表情が、その試合の紙面を飾っていた。
今でも、彼がTwitterで見せる、自分なりの論理で切っていこうとする怖いものなしのパーソナリティーが嫌いではなくて、とはいえなんだか切り捨てるものが多すぎるし無防備すぎるきらいはあるけれど、15年前の自分のことを思って、なぜかつど安心するのでもある。
そんな彼のことをなぜ突然思い出したかと言えば、半分笑い話なのだけれど、
今日モンテスキューの『ペルシャ人の手紙』を読んでいるときに、dervisという単語が何度も出てきた。これは現代のフランス語の辞書にはdervicheとして載っている。曰く、「ダルウィーシュ:イスラム教の托鉢僧、修行僧」。先生が言うには、どうもペルシャ語由来の言葉であるらしい。
とにかく、驚いたのだ。ダルウィーシュだなんて!
18世紀のフランス文学に、幼き私のヒーローの存在が、刻みこまれていたというわけ。
そのことを知って、この巡り合わせに特別な思いを抱かずにはいられず、帰る道すがらダルビッシュとの思い出を久方ぶりに反芻した。私の、なんとも言えない寂しさを伴った名古屋時代の、かけがえのない友人だった。
でも彼はその300年前、いやそのもっともっと前から、「僧侶」だったということを知らなかった。ペルシャ、イラン、アメリカ、日本、そしてフランス。托鉢僧からサッカー選手、高校球児、プロ野球選手、そしてまたアメリカへ。
さらなる活躍を願ってやまない。
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