崩壊の演劇 〜9.11以降のイメージとそのスペクタクル性について〜
はじめに・・・
これも2016年7月に書いたもの。
イメージと現実、そしてその崩壊と演劇性の関わりについて、さらには私たちの世代について。
私の世代にとって、9.11のテロは幼いころの社会的な出来事の記憶としてもっとも古く、もっとも印象的なものの一つである。飛行機がWTCに衝突しビルが崩壊していく様をテレビを通して目にし、またその後も同じ映像を今に至るまで繰り返し見せられてきた。その頃災害映画やディストピア映画をみていた覚えはあまりないが、それでも我々の目には何より「崩壊」がしっかりと焼きつけられている。イメージとして目の前に現れた9.11が私の世代の視覚体験の始まりにあると言えるだろう。ある世代はまず世界大戦による現実の崩壊を体験し、そのあとにディザスターフィルムと出会った、また別の世代は9.11の映像をみてハリウッド映画を連想しただろう、そして我々の世代はといえば、「イメージを通してみた現実の崩壊」がスタート地点である。そもそもから、イメージと現実は錯綜している。
9.11は現実だったのか?この問いにはっきりと答えることなどできない。私たちにはその前後の変化を体験することができなかった。「崩壊」はイメージとしてのみ私たちに姿を見せたのだった。
そのイメージは周囲に常にまとわりつくようになった。自分の身体の周りの現実世界に、次々と新しいものが作られていく時代ではなく、全てのものに関して「その後」が語られている。9.11に限らず、身の回りには「崩壊」があふれている。紛争や震災の映像は何度目にしてきたか分からないほどである。あるいは実際に被災地を訪ね倒壊した家屋に囲まれて佇むこともある。熊本城の石垣は複数の箇所が崩れ落ちており、それはなんとも自然に都市の風景に溶け込んでいた。これはイメージの世界ではない、疑いようのない現実のはずである。
最近の映画『ピクセル』(2015)では、宇宙からの侵略者によって、建物が次々とピクセル状に形を変えられ、そして破壊されていく様子が描かれる。米軍基地も、果てはタージ・マハルも、8ビットのブロックになり、倒潰する。ピクセル化した建物はイメージであるけれど、それが壊れることで結局は実際の建物が壊れていく。ここでは、ピクセルというイメージの崩壊と建物自体の現実的な崩壊が重なる様子が、映画というイメージに映し出されるという構造である。イメージとしてやってきた「崩壊」は、現実世界にも入り込み、実際の崩壊と結びついている。「崩壊」を通して、画面の中と世界は結びつき始めるのである。
近頃「ポケモンGO」なるスマートフォンゲームが流行っている。拡張現実の技術を使って、ポケモンのゲームの中の世界を体感できる。ここまでの大流行を生んだ要因は何かといえば、その最大の特徴は、実際にポケモンの世界の中に入り込んでいるような錯覚を得られるという身体性にある。都市を歩きさまざまな場所を訪ね、その移動がゲームの中に反映されることが、プレイヤーの楽しみである。イメージに現実世界での身体性を求める(あるいは求められる)という、ある意味で錯誤的な状況が、このゲームによって発生した新しいもののひとつであるといえる。
夜に池袋の西口公園へ行けば、老いも若きも携帯に首ったけな様子を見ることができる。個々は画面に没入しているが、全員紛れもなく同じ場所にいる。イメージの持つ動員力である。マイケル・フリードは、18世紀フランスのジャルダンによる人物画では、登場人物が何事かに「没入」しているために観者の存在が絵画の中で意識されず、それが「反演劇性」を生み出すといった。池袋のプレイヤーたちは、揃って没入の身振りを示している。確かに私がベンチからじっと視線を送ってもこちらに気付くことはなく、外界や風景に全く無関心である。幾人もの身振りが連続していて、広場に彫刻が乱立しているかのようでもある。しかし逆に、画面の内ではかれらは一人のプレイヤーを演じ、イメージの求めに応じて身体を動かしている。ここでは、観者は人ではなくイメージである。彼らは、イメージに対して強い演劇性を持つ、つまりイメージに媚びている。そしてそれと同時に、イメージと同一化している。
9.11という崩壊の演劇性の強さについては、よく言及されるところである。これはテロリストによって「上演された」スペクタクルであった。あるいは、『ピクセル』における崩壊ももちろん、我々が観るレベルではスペクタクルである。しかし戦後に事後的に確認される崩壊や、熊本でみた現実の崩壊は、全く異なる種類のものだったはずだ。外見は生々しいが、崩れた石垣は「没入」していて、観る私には無関心なのである。しかしこうした現実の崩壊もひとたび映像になればイメージとしての力を得る。「没入」していた現実はすぐさま顔をもたげ、こちらを誘うイメージへと変貌する。実際に赴かなければ現実の崩壊を見て知ることはできない。その現実がイメージと同一化していく錯綜に慣れてしまっているのだろうか。
演劇的な意味でイメージは現実を誘っていて、また私たちは演劇的な意味で現実をイメージ化する欲求に抗うことができないでいる。私たちが現実に身体を持つことを思えば、もはや現実がイメージを誘っているとさえ言える。イメージは現実を求め、現実はイメージを求めている。9.11を(大げさに言えば)原風景として持つ私たちの世代は、この構造のネイティヴな経験者なのである。