今年一番の気づきについて
気づき。今日は年内最後の投稿として、この言葉と私自身の体験について書いておきたい。
「気づきを得る」「気づきがあった」
これらは近頃よく見かける言い回しだ。単純に「気づいた」で良いではないかと思うが、この動詞は鍵の締め忘れとか相手の髪型といった異常や変化を感知したときに使われるようである。
これに対し「気づき」といえばより意義深い教訓や含蓄のある発見を指すように思う。それもここ10〜20年の間に現れた用法である気がするが、もしかすると肯定的な文脈で"全然"という語を用いるのと同じく、古い時代にあって一旦廃れてから復活したものかもしれない。
さて、今年は自己理解プログラムの受講をきっかけとしていくつもの「気づき」について書いてきた。受講期間中のみならず修了後にも新たな発見があり、全てではないがその多くをnoteに投稿した。それらをざっと思い返し、そして全体を見渡せば、意義深い「気づき」がそれ単独で得られるものでなくその前の過程を伴っていると分かる。
様々な人、特に大きなことを成し遂げた人の気づきのエピソードを読んでいると、(気づきという語を用いていなくても)新しい人や本などとの出会いや衝撃的な体験から重大な気づきを得て、それが転換点となって現在につながっているという形のものが多い。その代表例だと私が勝手に思っているのが、かの『7つの習慣』の著者スティーブン・R・コヴィーがとある本(おそらくビクトール・フランクルの『夜と霧』)を読んだときの体験だ。
そういう話を聞いていると自分もある日突然良い気づきが得られないかと思ってしまうが、おそらくそんなことは起こらない。
雷に打たれるほど衝撃的な「気づき」があるとしたら、その前には後に布石となる数々の小さな気づきがある。そしてその前にはどうしても考えずにはいられない関心事やその人なりの悩みがあって、それに関連する事柄を察知するための感受性が高められた状態でいる。誰も自らが無関心である分野のことで重大な気づきを得ることはあるまい。
後に転換点と呼ばれるほどの気づきとは、往々にして頭の中で「全てがつながった」と感じる瞬間のことである。その瞬間に至るには、つながるべき要素が出揃ってなければならない。そしてこうした個々の要素こそがより小さな気づきの積み重ねに他ならない。これが実に地味でしばしば苦痛を伴う過程となる。
しかしながら大きなことを成し遂げた後で人が自らの歩みを振り返るとき、最も意義深かった体験や気づきについて述べることはあってもその前の段階に触れることはあまりないように思う。仮にあったとしてもあまりに地味で退屈あるゆえ全く注目されない。
だがそれで誤解してはならない。その前の過程がなければおそらくその人も転換点となる教訓を得られなかった。たとえ同じ体験をしてもその気づきは得られなかった。そのような気がしてならない。
この話をここまで書いてきたのは、つい最近私も「全てがつながった」と感じる瞬間を体験したからだ。
つながったと思う要素は7月頃から今月までにnoteに書いてきた事柄であり、その他にもいくつかある。それらが単発、バラバラのものでなく一つの物語のように連なって思えたのだった。
これのおかげで来る2025年がこれまでと違ったものになると確信している。だがその内容をそのまま書くのは野暮である気がして、敢えて勿体ぶったことを書いてきた。これを明かすとしたら来年か、もしくはそれより後の時期にする。もしかするとnoteに書かないかもしれないが、私にとって大事な人には何らかの形で伝えるつもりでいる。