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改めて物理学のことを

つい最近ふとしたきっかけで、私が大学生の頃に学部で学んだ内容を思い出した。線形代数にて、対称行列と呼ばれるものが直行行列によって対角化できるという物理学科のカリキュラムの序盤で習う定理だ。

少し時間を持て余したときに、自分で対角化の簡単な問題を作って解いてみようとした。2行2列のシンプルなものであるが、手計算でやれば(今の仕事に登場するのに比べれば)式が煩雑になり、途中で何度か計算ミスもした。

それで解けたとしても、このレベルの計算の結果で説明できる応用例がごく限られたものであることが思い出された。

子供の頃に私は電気や機械の動く仕組みに興味を持っていた。ガソリンエンジンの4サイクルや電気モーターの構造、直流と交流の違い etc.
そうした原理の部分を知らずにマシンやコンピューターを使うことに不満を抱いてもいた。

それから時が流れて高校生の頃に、私は「F = qvB」という数式で表されるローレンツ力を知って感銘を受けた。子供の頃に科学系の図鑑を見て電磁誘導現象やそれを利用した電気モーター・発電機の中で起きていることを何となく知ったが、それが突如映像のように活きたイメージとして思い描けた。

加えてニュートンの運動方程式も面白いと思った。物体に働く全ての力を足し合わせて得られる合力がその瞬間の物体の加速度を決める。そして同じ加速度を得るにも、物体の質量が大きければその分だけ大きな力を要する。数式で書けば「F = ma」。たったこれだけで本当にたくさんの事柄が説明できることに強烈な印象を受けた。

物理法則はある種の方程式で表される。その方程式を解けば巨大な天体から素粒子のような存在まであらゆる物体の振る舞いが分かる。このことに不思議さや深遠さを感じて私は物理を学ぼうと思ったのだった。

当時は無知ゆえに、たくさんの法則を知ればあらゆる種類の「運動」(物理学的な意味で)を正確に説明できるかのように思っていた。現実がそうでないことは、入学後に嫌というほど思い知らされるようになる。

まず高校物理でも「おもりと床との間の摩擦」や「おもりに繋がれたバネや紐の質量」や「空気抵抗」といった力を悉く無視して考える。
高校では物体をおもりや小球と呼んで大きさを曖昧にしていたが、大学初年度の力学の講義ではこれを大きさのない「質点」として扱った。

古典力学のケプラー運動や、量子力学における水素原子模型では二体問題と称して恒星と惑星、陽子と電子といった具合にただ二つの物体ないし粒子しか空間内にないとして方程式を書き下す。議論は常にそこまで話をシンプルにしてから始まるものだった。

こうした手続きを物理学ではモデル化という。モデルとは模型とも呼ばれ、現実の事物に似せてはいるが考えたいもの以外の要因を一切無視して理想化した概念という意味を持つ。

物理学科のカリキュラムではこれらと並行して熱統計力学を学ぶ。正確には熱力学と統計力学とに分けられていて、どちらも多数の原子・分子から成る流体ないし物体が持つエネルギーやエントロピーといった量を考える。
ただし熱力学では物質を構成する要素が何であろうと、つまりよく知られた性質を持つ原子であろうとなかろうと成り立つ関係式を考えるのに対して、統計力学では最小の構成要素の性質(相互作用とかエネルギー順位とか統計性とか)を仮定した上で議論する。

そして熱力学も統計力学も、通常は大前提として平衡状態を仮定する。平衡状態とは時間が経っても先ほど挙げた温度とか圧力といった量が変化せず、個々の原子・分子たちは絶えず運動していても全体の様子が変わらない状態を指す。そのため熱統計力学とは流体ないし物体の平衡状態でどのような関係式が成り立つかを探る分野だとも言える。

実を言うと、このように最低限の要素だけ残したり議論の対象を大胆に限定したりもしなければ、教科書に載っているきれいな関係式や一般解(要するに答え)は成り立たない。

もちろん現代には優れた計算機(コンピューター)があるから、より現実に近く複雑な条件で精度の高い計算をすることも可能ではある。
しかしながらそのためには初めの物体の重さや位置関係などを具体的な数値で指定せねばならない。それらの値が変わったときに結果がどうなるかは、いちいち初めのステップから計算しなければ分からない。だからこのようなセッティング(力学系)で起こる運動とはこう、と一言で正確に言えるようにはならない。

これでは個々のケース(初期条件)で何が起こるか知れても、結局その力学系について”理解した”とは到底言えない。ゆえに私がかつて物理学について抱いた期待は幻想だったと言わざるを得ない。

かつて私は、モデル化とはそうしないと問題が複雑になって手に負えないから仕方なくする操作だとばかり思っていた。だからそこで無視した要因をしっかり取り入れて正確に計算できればその結果は単純なモデルのそれよりも優れていると信じていた。
それから平衡状態についても、本当はそうでない状態も含めて考えたいのにそれができないから妥協して議論しているのだとばかり思っていた。

様々な手法を駆使して現実に近い条件で精度の高い計算をしたり、平衡状態に限らないより普遍的な法則を探求したりすることには一定の意味がある。しかしながらそれに比べて考えたい要素以外のものを排したモデル化や平衡状態に限った議論が劣っているかのように思うのは大きな誤解だった。

むしろそうやって話を単純にするからこそ教科書に載るようなきれいな関係式や一般解を導き出せて、この力学系では一般にこういうことが起こるとかこういう性質があると(ほぼ)一言で言い切れてしまう。そしてより複雑な条件下での結果を知るには、単純化したときの結果を出発点にしてそれとの違いを探るのが定石である。

そして理論物理学の研究とは、一般的がどこまで通用するかだとか、従来から知られた法則が成り立つか定かでない領域のことをどこまで予言できるかを追求するものだと解している。それは元々私が物理学科でしたいと思っていたのと異なる性質の活動であった。

ここで私は自問してみる。それならば私が物理学を学ぶことの意味とは何だったのだろうかと。

私がかつて期待したような、ものの振る舞いを正確に予言できる能力が発揮されるのは、現実の一部分を巧みに切り取って作られるごく狭い領域だけでのことだった。その事実といくつかのきれいな答え(関係式や一般化)を知れた時点で、初めにあった私の目的は果たせるところまで果たされていた。

そこからどうするかを、私は全くと言っていいほど考えていなかった。そもそも当時は己が物理学を学んで何をしたいか、何を望んでいるかを自覚していなかったように思う。いや、私は何のことでも自らの本心を素直に認めようとしなかったから、本当は分かっていても見て見ぬふりをしていた。

現実にはそのまま「物理学科の者なら普通こうする」との先入観から真っ当とか無難と思われる選択をした。そうやって進級・進学した先で燃え尽きてしまった。その状態で同年代の他者との比較から、己はなんと無能で腑抜けな者なのだと嘆いて勝手に打ちひしがれていた。

しかしかつて自らが何をしたかったか知った今では、先述の通り「初めにあった私の目的は果たせるところまで果たされていた」と言えるようになっている。私個人にとってこの変化には大いに意義がある。

もし同じことを学部にいる間に実感できていれば、そこで満足して一旦ニュートラルな状態になり、「これからどうしようか」と考えられただろう。それでもしかすると以前と他の目的のために物理学をより深く学びたいと思ったかもしれないし、他の分野に転じることにしたかもしれない。

けれどもそう上手くは運ばないのが人生であるし、この話自体が本当に「たられば」論でしかない。今はただこれだけのことを理解するまで学べたことと、初めにあった目的が達せられたこととを認めてやりたいと思う。

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