文章術その4 (終):個人的な心がけ
こんにちは! ここ最近は自分で文章を考えて書くということについて記事を書いてきました。今回はその締めくくりとして、私がこれまでどんな種類の文を書くときにも気をつけていた点を述べておこうと思います。
【本題】文章を書くとき必ず気をつけること
1. 1つの小トピックを2〜4つの文で書く
これは前回紹介した文章術に関する本を読んだときから意識しています。その本の主旨とは、様々な場面において1つの用件を伝えるのに「4行」の文章を書けば長すぎも短すぎもしなくて分かりやすいメッセージになるというものでした。
こちらは前回の投稿の中で私なりに実践している「4行構成」の書き方を解説した段落です。実はこれ自体も4つの文で書かれた文章の一例になっています。この4つの文(句点「。」で区切られたものをそう呼びます)を読むだけで要点が伝わり、長くも短くもない印象を受けるのではないでしょうか。
Twitter(現X)での1ポスト程度の長さであればこれで十分です。より長い文章を書くときには「4行」に拘らず、2つ〜4つの文を書く度に次の話題に移っていくようにします。
すると全体を見渡したときに「2+2+2」や「3+3+1」のような構成が見えてきます。この中の個々の数字は1段落内の分の数です。思いつくままに書くのではなく常に段落内の文の数を意識することで、情報量が自然に調節されて適度な長さの文章が書けるように思います。
2. 同じ文末を極力繰り返さない
先ほど引用した文章を読み直すと、各文の末尾が「ましょう。」「ます。」「です。」「ます。」となっています。「ます。」だけは2回使われているものの、同じ文末が繰り返されることはありませんでした。
この長さの文章でも文末が「です。」「です。」「です。」とか「ました。」「ました。」「ました。」のような繰り返しだと印象がかなり異なるでしょう。
そのような文章は幾分かくどいと感じる上に、どれが主題あるいは結論かが分かりづらくなります。抑揚・メリハリが失われて、特に伝えたい内容があってもぼやけて伝わりにくくなるでしょう。
私はそのような文章を嫌って極力毎回異なる形で終わる文を書くようにしていました。そうすることによってわざわざ太字や下線で強調しなくても相手が読むだけで自然に要点が伝わるように思います。ただし後にも述べるように、特に強調したい事柄がなくて根拠や背景を述べたいところでは敢えて同じ文末を繰り返すこともありました。
3. 定石通りに助詞を使う
助詞とはいわゆる「てにをは」ですね。
こちらは「てにをは」と検索してトップに出た記事です。
食べたいものを聞かれて「魚でいい」と答えるのと「魚がいい」と答えるのとで印象・意味合いが変わるように、たった一文字の助詞の使い方だけで大きな違いが生じます。だから正しい使い方を覚えて場面に応じて使い分けようというのがこの記事の要旨でした。
その点には同意するものの、私が普段考えているのは助詞によって不自然さを生まないようにしようということです。
例として
「日本には四季がある。」
「日本には四季はある。」
の2文を比べると、前者は自然で後者は不自然と感じるでしょう。同じようなことは
「今日はお酒を控えておく。」
「今日はお酒は控えておく。」
だとか、
「この公園に噴水はない。」
「この公園には噴水はない。」
といった例でも言えると思います。
このように1つの文の中で「は」が複数回使われると日本語の文章は不自然に、あるいは拙く見えてきます。このように助詞の「は」を使うとしたら1つの文で一度だけ使うのが基本です。
そうはいっても上記のような文で「四季」「お酒」「公園」といった単語に「は」をつけたい場面もあるかと思います。これならばどうでしょう。
「日本にも四季はある。」
「お酒は控えておく。」
「この公園には噴水がない。」
1番目は他の国と比較する文脈に適しており、2番目は他の日について言及すらせずただ明確に意思表示している印象があり、3番目にはその公園にある程度の設備が備わっているが噴水がないと強調しているようなニュアンスが含まれています。
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このように助詞は伝えたい事柄そのものと別に文脈やニュアンスを考慮して選ばれます。そして助詞の使い方は決して様々なものではなく、数十個程度のパターンに分類されるように思います。それらのパターンは助詞の使い方の定石というべきでしょう。
私は普段いかなる文章を書くときにも必ずこの定石のいずれかの助詞を使うようにしています。初めに挙げた4行構成が段落のような大きな文章の集まりの「型」であったのに対し、助詞の使い方はその中の1つ1つの文の「型」を定めるものです。私は普段からその両方を意識しています。
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余談ですが、このように助詞の使い方に気をつけるようになったきっかけはドイツ語を学んだことだったと思います。
ドイツ語では前置詞(と冠詞の格)が日本語の助詞に相当する機能を持ちますが、明確に「この動詞にはこの前置詞を充てる」と定めるのが特徴です。 例えば"auf"を使うべきところで"an"を使うのは間違いとされ、同じ動詞でも対象によって"an"と"in"のいずれかと組み合わせるというような具体例が延々と出てきます。
そのような背景もあってか、日本語を学ぶドイツ語圏の人と交流すると、場所を言うのに「に」と「で」はどう使い分けるかとか、ここではなぜ「は」より「が」を使うべきかと質問されることが多かったです。
これと比べると、例えば中国系の人であれば母国語に助詞や前置詞がないためか助詞に無頓着な印象がありました。ただ代わりに彼らの使う語彙は文法のレベルに比して高度であったように思います。
それはさておき、このような体験を通じて日本語の「てにをは」はまだ感覚的に(要するになんとなく)使い分けられる印象がありました。この頃から私は日本語の助詞でも自主的に「型」を意識するようになったと思います。
それから助詞の使い方のパターン(定石)をどうやって頭に入れたかと自問すると、ドイツ語を学ぶ前に読書の経験があったこと、中学校や高校で国語を熱心に勉強したことの2つが思い浮かびます。
特にこれといった秘策はなく、地味な学習の体験が下地になっていました。これに関して「これだけ覚えればOK」と言い切ることはできません。
4. 1文の中では述語を2つまでに留める
この直前の1段落を1文に繋いだ形に書き換えてみます。
いかがでしょうか? これだと「秘策はない」「地道な学習の体験が下地にある」「これだけ覚えればOKと言えない」の3点でどれが最も伝えたいか分かりにくいかと思います。それから「なっていて」「関して」と、短い間隔で「て」が繰り返されるところも美しくありません。
このようになる前に文を区切ることで、先ほどの段落では「地味な学習の体験」が最も強調されていたように思います。その前後はこれの補足・補強というべき部分です。
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このような具合に、1つの文が長くなり過ぎないように区切ることは結構重要です。初めに述べた「4行構成」でも、その中の1つ1つの文が長過ぎては結局何が言いたいか分かりづらくなって意味がなくなってしまいます。
そこで適度な文の長さや区切り方はどのようなものかと自問すると、概ね動作を表す言葉が2回出たところで区切るべきだと私は考えていました。
動作を表すと単語と言えば動詞が初めに浮かびますが、名詞(より正確には体言)の前につく連体形のものは形容詞と同じく修飾語に含められるものです。そこで連体形はノーカンとし、動詞よりも用言を数えて区切ると良いように思います。ここまで書いてきた文もまた概ねこの原則に従っています。
実を言うとこれもまたドイツ語に触れてから意識し始めたことでした。
ドイツ語では主文・副文の明確な区別があり、さらには"und"、"aber"、 "denn" といった主文同士をつなぐ接続詞があります。それらのおかげで名詞にかかる修飾語を含めないで動作を表す言葉を数えることが容易でした。どこに主文の動詞があるかと探しつつ、どのような文を書けば分かりやすいかと考えるうちに自然と先述の区切り方を心がけるようになりました。
5. 常套句や専門用語を極力使わない
ここまで書いてきた文章には、いわゆる常套句や使い古された表現がほとんどなかったと思います。例えば「と言っても過言ではない」だとか、「と思うのは私だけでしょうか」などと書こうと思えば書けた箇所はありますが、意図してこれらの言い回しをしないようにしてきました。
それから(この直前の段落に書いた文法用語を別とすれば)専門的な用語を使うこともあまりなく、あったとしても必ず用語の解説を入れます。こうしたところもまた私が文章を書くときに気をつけているところです。
常套句を書いて済ませたり専門用語を並べたりして書かれた文章を私は敬遠しています。常套句や専門用語自体は必ずしも悪くありませんが、それらを乱用するのは思考の停止だと思っています。
分かりやすそう、伝わりやすそうな文句に頼ることで自分が本当に伝えたいことの意味がぼかされる気がするため使いたがらないのです。同様に、特定の業界でしか用いられない言葉を無闇に使えばその言葉の意味が共有されない限り本当に伝えたい内容が伝わらない気がします。専門用語とは、第一にその業界の中での連絡や報告などの情報共有のために使われるべきであり、自分の思いや発想を伝えるには適さないのではないでしょうか。
こうした考えから私は私的・個人的な文章を書くときには基本的に常套句や専門用語を排してなるべく平易な語彙を用います。
ただしそうしていては意味が曖昧になることも多いので、そうしたときは言葉の定義や意味合いを述べてから専門用語を取り入れもします。また、これは専ら私的・個人的な文章を書くときの話であり、仕事のメールなど同じ業界内の人とのやり取りでは当たり前のように専門用語を使います。なのでこの節に書いた心がけは、文章を書くときにも公私の区別をつけることとも言い換えられるでしょう。
6. 辞書を引く
「この言葉の使い方は合っているかな?」
「この漢字を使うのは正しいかな?」
このような疑問が湧いたらすぐに調べます。子供の頃には紙の辞書を引き、大人になってからはすぐにネットで検索していました。
例えば「要点をおさえる」と書こうとして、この「おさえる」は押と抑のどちらの字を使うべきかはっきり分からなくなればその場で調べます。自らがかつてひどく思い悩み落ち込んだ気分になり将来のことを悲観的に考えていた頃のことを書こうとして「暗澹」という語が浮かんだら、検索して自分のイメージと合致しているか確かめます。
近年だと「すべからく」や「耳障り」といった語を誤用する例が後を立ちませんが、言葉の誤用は「この言い方で合っているか」と少しでも疑問に思ったときに都度調べれば発生しないはずです。
そうしていれば「ことごとく」とか「例外なく」、それに「聞こえ(のいい)」といったより平易で適切な言い方が見つけられます。私はいつもそちら側の語句を用いるようにしています。
【余談】文章の書き方に関心を持つまで
これまでnoteなどで私の文章を読んだ方から何度か「読みやすい」「言語化が上手い」「情報がよく纏まっている」と言われたことがあります。そう言われてみて自分が文章を書くときに気をつけていることを書き出したところ、複数の項目が挙がりました。
その中には文章の用途によって変わるものもあったものの、多くは業務用のメールでも私的なテキストメッセージでもこうした長文でも共通して言えることです。それらを一通り紹介・説明するために今回の記事を書きました。
初めに挙げた構成のところは特定の書籍から直接影響を受けて考えたことでしたが、それ以外は後に述べる体験から自然に意識して始めたことでした。
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常に何かを気にしながら文章を書いているというのは、文章の書き方に関心があるということでもあります。ではどのようにして関心を持ったかと思い返せば、きっかけとなる出来事がいくつかありました。
初めは以前の投稿で述べた通り、中学生の頃に脳のはたらきに関する本を読んだことの影響が大きかったです。それから私は頭に入れたい事柄を紙のノートへ積極的に書き込むようになりました。
その後高校生になってから、かつて新聞記者だった祖父の書いた80ページ以上の「自分史」やコリン・パウエル元米国務長官の『マイ・アメリカン・ジャーニー』を読みました。これらに影響を受けて私は自分でも自伝・回顧録を書きたいと思うようになり、こっそり一人で幼少期からその年までの体験を紙に書き綴りもしました。
その半年ほど後に私は本多勝一『日本語の作文技術』を読みました。
私の通っていた高校の国語の授業では課題図書があり、指定された本を読んで内容を確認するテストが出されることが年に十数回ありました。その中には井伏鱒二の『黒い雨』やドストエフスキーの『罪と罰』があり、それらの文学作品に並んで『日本語の作文技術』も読むことになっていました。
本多勝一氏はいささか極端な政治的スタンスをもつ人物ですが、『日本語の作文技術』は主義主張の違いを超えて支持される名著です。
私もこれを初めて読んだときから影響を受けており、今回書いた中で「定石通りに助詞を使う」と「1文の中では述語を2つまでに留める」の2点はこの本を読んでから意識し始めたように思います。
それから4、5年が経った頃に私は前回紹介した樋口裕一『頭のいい人は「短く」伝える』に出会いました。それと同時期にドイツ語での作文に傾倒し、日本語の助詞の使い方や文の区切り方についても関心を高めていったことを覚えています。
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そうしてさらに10年が経過して今に至ります。
私個人としてはここまで書いてきたことを守りながら日本語の文章を書くことが当たり前になっています。しかしながらインターネット上でも実生活でも言いたいことをなかなか文章化できなくて困っている人を見かけたため、これまで学んで実践してきたことを一通り書き出してみました。
私自身はまだあまり文章が上手いとは思っていません。2、3の本を読んだ以外は自己流で書いてきて、仕事でそのスキルを活かすこともあったものの、文章を書くことで身を立てているわけではありません。今後やっていくこと次第では一旦初心に還って別の文章の書き方を学んでみようとも思います。今回はその前にこれまで実際にしてきたことの総ざらいをしました。
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以上で今月3日から始めた私的な「文章術」シリーズの投稿を締めくくりたいと思います。始める前に書きたかったことをここまでで余すことなく書けましたので、これで一旦終わりとしましょう。
この期間には別のトピックで色々考えることがありましたので、次週以降はシリーズではなく単発でそれらの話をしていくつもりでいます。
今のところ具体的な構想はありませんが、何かのきっかけで再び1つのテーマを取り上げて複数回に分けた投稿をするかもしれません。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!