12月11日の礼拝の内容です。
12月11日の礼拝の内容です。オンラインのアドレスはhttps://youtu.be/GPKGiKo8qikです。
讃美歌は、226(1)303(1)315(1)26です。24の夕方5時から、聖夜礼拝です。
礼拝説教 マタイ27:27~31「茨の冠をかぶせられる主」 2022.12.11
12月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神のみ言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをすることができますようにと心から願います。
マタイによる福音書を読んでいます。イエス様の十字架の場面が近づいています。今日の聖書の箇所は、イエス様が十字架につけられる場面の少し前の出来事です。イエス様は弟子たちとエルサレムに入られました。それはイスラエルの最大の祭りである過越し祭を祝うためです。この祭りには世界中から、イスラエルの人々がエルサレムに入って来ていました。イエス様は敵対する祭司長たちと民の長老たちに逮捕されてしまいました。すぐに大祭司の屋敷に連れて行かれて、裁判を受けられました。その裁判は、イエス様を有罪にする裁判でした。十字架につけるための裁判でした。イエス様は大祭司の問いに「わたしは神の子、メシアである」とはっきりと答えました。それで、神の名を冒涜したことで有罪になってしまうのです。
当時、イスラエルの人々は、ローマ帝国の支配下にあったので、自分たちで十字架刑を決定することも執行することもできませんでした。ローマ帝国の許可がなければならなかったのです。その許可を与えるのが、ローマ総督ピラトでした。ピラトは普段は、地中海沿岸のカイサリアに住んでいました。エルサレムで大きな祭りがある時は、軍隊と共にエルサレムにやって来ていました。大勢の人々がエルサレムに集まるので、暴動や反乱が起ることを監視するためでした。イエス様を逮捕した祭司長たちは、ローマ総督ピラトのもとに、イエス様を連れて行き、十字架刑を決定してしまうのです。イエス様の十字架刑が決定したのです。
イエス様が十字架刑になること、これはとても辛いことでした。十字架刑は人間が考えた中で、一番残酷な死刑の方法でした。ローマ帝国は、十字架刑を執行される人々は、奴隷か謀反を図った人だけと決められていました。多くの人々が見ている前で行われる公開処刑です。この十字架刑には、ローマ帝国に逆らう者は、このような辛い目にあうことになると暗黙の圧力の中で執行されていくのです。ピラトは、イエス様を鞭打ってから、十字架につけるために自分の軍隊に、引き渡します。ローマ総督の兵士たちは、イエス様を総督官邸に連れて行きました。部隊の全員をイエス様の周りに集めました。
考えてみると、イスラエルの人々である祭司長たちや民の長老たちは、イエス様の十字架刑を執行するのに、自分たちの手は汚さず、ローマ人の手に任せることになります。ローマの兵隊たちにとって、イエス様のことはどのように映っていたのでしょうか。すでに、イエス様に対して、ローマ人による鞭打ちが行われてしまいました。この鞭打ちは簡単なものではありません。この鞭打ちは39回までと決められていたようです。それ以上、してしまうと受刑者がそのまま死んでしまうからです。鞭の威力は、皮膚を裂き、肉をえぐりとってしまうのです。ここで、イエス様はすでに息絶え絶えになっていたと考えられます。
それから、ローマの兵士たちは、イエス様の着ている物をはぎ取って、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右の手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」といって、侮辱しています。唾を吐きかけられます。葦の棒を取り上げて、イエス様の頭を叩き続けます。イエス様を侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せて、十字架につけるために引いて行きました。
イエス様は、鞭で打たれ、瀕死の状況にあり、そして、茨の冠を載せられ、「ユダヤ人の王」として侮辱されて、自分が負う十字架を担いで、刑場まで町の大通りを歩いて行かなければなりませんでした。十字架刑になるということは、公開処刑です。多くの人々に、その悲惨な姿をさらすことになります。その十字架の道をイエス様は歩まれたのです。重い十字架を刑場まで運ぶことができず、途中で倒れてしまい、代わりの者に十字架を担いでもらうことになりました。そして、十字架につけられます。左右に同じ十字架が立っています。イエス様を含めて3名が十字架刑で死刑が執行されていきます。近くにいる人々は、イエス様を侮辱し、ののしっていきます。一緒に十字架につけられた強盗たちからも同じようにののしられたとマタイは書いています。十字架につけられたイエス様は、苦しみ悶えています。午後の3時過ぎに、イエス様は大声で叫び、息を引き取られるとなっていきます。その後、墓に葬られ、3日目に復活されます。
今、私たちはクリスマスを待つ待降節の中にあります。クリスマスは、イエス様の誕生を祝う時です。どうして、イエス様の誕生を、私たちはお祝いするのでしょうか。どうして、イエス様の誕生が、私たちの喜びになるのでしょうか。イエス様は、神の子でありながら、私たちと同じこの地上にやって来られました。私たちと同じ人間になられたのです。イエス様が、この地上に生まれて来たのは、どうしてでしょうか。それは、十字架について死ぬためです。それが、イエス様がこの世に生まれた理由です。つまり、クリスマスは、十字架の死を意味しているということができます。そもそも、どうして、イエス様が十字架について死ななければならないのでしょう。十字架の死のために、この世に生まれて来た、あまりに悲しいことではありませんか。実際に、それがクリスマスの意味なのです。
神は、この世界をつくり、私たちをつくってくださいました。特別な存在として、神は私たち人間をつくってくださったのです。それなのに、私たち人間は、神に対して反抗し、罪を犯してしまいました。罪を犯した結果として死なねばならなくなってしまったのです。旧約聖書では、その人間の罪について詳しく書かれてあります。そして、その犯された罪を贖うためにはどうしたら、よいのか詳しい指示が書かれてあります。人間は罪を犯しました。本来なら、罪の結果として、人間は死なねばならないのです。しかし、それではどうにもなりませんので、神は、人間の犯した罪を、身代わりとして、身近な家畜である牛や羊や山羊を使って、罪の贖いをしてきました。家畜が、私たちの罪の荷代わりとして、ささげられるのです。つまり、殺されてしまうのです。人間自身は、自分の犯した罪を贖う力はありません。家畜が身代わりとしての罪の贖いも完全なものではありませんでした。
そこで、完全な罪の贖いが必要だったのです。それが、神の子であるイエス・キリストの十字架の死です。どうしても、イエス様の十字架の死が必要だったのです。私たちの罪の贖いのために、必要なことでした。イエス・キリストの十字架の死がなければ、私たちはすべて、神の裁きの中にあり、永遠の滅びに行くことになります。それを回避する、たった1つの手段が、イエス様の十字架の死でした。私たちが、神の子イエス・キリストの十字架の死を、私たちの罪の赦しのためであったと信じ、洗礼を受けることによって、完全な救いが与えられるのです。完全な罪の贖いです。
イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられるのは、天の国に招かれること、永遠の命を与えられて、神と共に永遠に生きることです。私たちのただ一つの希望は、イエス・キリストの十字架の死と復活のみです。それ以外に、本当の希望はありません。だからこそ、クリスマスは、私たちの希望そのものです。
今、私たちは目を閉じてみましょう。暗闇の中にあります。本来、私たちは、自分たちが犯した罪によって、暗闇の中にあります。そこには、光を見出すことはできないのです。いくら、自分自身で探しても、光を見出すことはできません。ただ1つの光は、神から送られたクリスマスの光です。神の子が、人間として、私たちの世界に生まれて来てくださる。そして、最後には十字架の上で殺されてしまうのです。でも、それが私たちのただ1つの光です。神から送られて来た光は、1週間ごとに、光輝いていきます。そして、イエス・キリストの誕生、クリスマスの時を迎えるのです。クリスマスの光を、私たちはしっかりと見つめていきたいと心から願います。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。神の子イエス・キリストの誕生を心から待ち望みます。イエス様の十字架の死と復活のみが、私たちのただ1つの希望です。そのクリスマスの光を、私たちがあなたへの信仰の目を開き、しっかりと見つめることができ、そして、信じて行くことができますように、導いてください。この世にある真実の光であるクリスマスの灯をしっかりと受け止めることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。