1月15日の礼拝の内容です。
1月15日の礼拝の内容です。オンラインのアドレスはhttps://youtu.be/Yaqgiu5bryMです。
讃美歌は、280(1)351(1)402(1)27です。雨が欲しいと思う時もありますね。
礼拝説教 マタイ27:57~61「アリマタヤのヨセフ」 2023.1.15
1月の第3の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉によって、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。
先週には、イエス様の十字架の死の場面をみました。今日は、イエス様の葬りの場面になります。イエス様の十字架のことを振り返ってみたいと思います。イエス様の働きはガリラヤ地方が中心でした。ガリラヤからエルサレムに旅立たれます。それは、弟子たちと共に過越しの祭りを祝うためでしたが、本当の目的は、御自身が十字架につくためでした。イエス様は弟子たちに、エルサレムへ向かう時に三度に渡る受難予告をしています。自分がエルサレムに行く目的は、多くの人々に苦しみを受けて、十字架について死ぬことと3日目に復活することを話したのです。もちろん、弟子たちは、イエス様のその受難予告を受け入れることができませんでした。
エルサレムに入られますと、過越しの食事を弟子たちと共にされます。いわゆる最後の晩餐です。そこで行われたのが、弟子たちの裏切りを語ることと、パンとぶどう酒を用いて、十字架の死と復活の意味を語ることでした。弟子の1人のイスカリオテのユダの裏切りがあって、イエス様の十字架は目の前に迫って来ています。次のゲッセマネの祈りでは、十字架の前に、最後の祈りをしています。十字架におつきになる前の苦しみの祈りです。自分は、本当は十字架につきたくないと神に願いました、でも、神の御心は、自分が十字架につくことを受け止めて、十字架の道を進んで行かれようとされます。裏切ったユダが、大勢の人々と共に、イエス様を逮捕するためにやって来ました。イエス様は自ら進んで、逮捕されていきました。
大祭司の家に連れて行かれて、祭司長たちや民の長老たちから裁判を受けます。ユダヤ人の最高議会の人々もいました。そして、大祭司に「お前は、神の子メシアなのか」と問われると、イエス様は「その通りである。」と答えて、十字架刑が決まりました。ユダヤ人自身では、十字架刑を決めることも執行することもできなかったので、ローマ総督ピラトのもとに、イエス様を連れて行き、十字架刑にするように求めていきます。ピラトは、イエス様の十字架刑を決定するのです。イエス様が十字架刑になることが決まりました。イエス様は裸にされて、鞭で打たれます。厳しい鞭打ちでした。イエス様はもうふらふらです。まともに立っていることもできません。それでも、重い十字架を背負って刑場まで歩いて行くことになります。十字架刑は公開処刑のために、エルサレムの大通りを、死刑囚たちは、自分たちがつけられる十字架を担いで歩いて行かなければなりません。イエス様は途中で倒れ、立つことができなくなりました。それで近くにいたシモンに十字架を担いでもらい、何とか自力で、刑場まで行くことができました。
刑場に着きますと、十字架につけられます。十字架刑は人間が考えた死刑の方法で最も残酷な方法だといわれています。それは、ローマ帝国が奴隷や暴動を犯した者だけに行う死刑の方法でした。見せしめの意味が強くあります。十字架刑は長く苦しめて殺す方法です。十字架につけられたイエス様は苦しみ悶えます。十字架につけられたイエス様を、近くの人々はののしり侮辱します。そして、なくなる前に午後3時ごろに、大声で叫ばれます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉です。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味でした。まもなく、イエス様は再び大声で叫び、息を引き取られたのです。ここで、イエス様は十字架の上で死なれたのです。この様子を大勢の婦人たちが遠くから見守っていました。この婦人たちは、ガリラヤからイエス様に従って来て世話をしていた人々でした。その中には、マグダラのマリア、もう1人のマリアがいました。
そして、今日の聖書の箇所です。イエス様が十字架から下ろされて、墓に葬られる様子が書かれてあります。夕方になるとと書かれてあります。イエス様がなくなったのが、午後3時ごろとありますので、日没まではほとんど時間がない中でのことです。ユダヤ人にとって大切な安息日が始まります。日没になってしまうと安息日になり、何もできなくなります。安息日が開ける日曜日の朝にならないと、何かをすることができません。イエス様が十字架の上でなくなって、十字架から下ろし、墓に葬らなければなりません。死刑囚の遺体を引き取る人はあまりいないでしょう。その時に初めて登場してくるのが、アリマタヤ出身の金持ちのヨセフという人です。この人もイエス様の弟子であったとマタイは書いています。このアリマタヤ出身のヨセフは、ユダヤ最高議会の議員だったといわれています。この人は、イエス様が逮捕されて、大祭司の家に連れて行かれて、裁判になりましたが、その時にはいなかったのでしょう。イエス様の葬りの場面では、登場して来るのが、このアリマタヤのヨセフと女性たちのみです。イエス様の弟子たちは、そこにはいませんでした。
アリマタヤのヨセフの行動は大きな勇気と決断が必要だったのでしょう。ユダヤ最高議会の議員だったという立場もあります。それでも、イエス様に対する思いから、自ら行動していくのです。アリマタヤのヨセフが、ローマ総督ピラトのところに行って、イエス様の遺体を渡してくれるように願い出ています。そこで、ピラトは、イエス様の遺体を渡すように命じます。ヨセフはイエス様の遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去りました。安息日までの時間が限られている中で、ヨセフは、急いで、イエス様を十字架から下ろし、自分の新しい墓に納めることができました。その様子をマグダラのマリアともう1人のマリアが、そこに残り、墓の方を向いて座っていました。
イエス様の十字架の場面では、遠くから見守っていました。イエス様の葬りの場面では、墓の方を向いて座っていました。大勢の婦人たちが、そのようにしていたのです。その婦人たちの中でも、マグダラのマリアともう1人のマリアが、そのようにしていました。この婦人たちは、ガリラヤからイエス様に従って来て世話をしていた人々であったとマタイは書いています。この女性たちが、イエス様の十字架の死と葬りの場面では、しっかりと登場しています。福音書には、この女性たちのことはあまり書かれてありません。でも、イエス様の行動と共にあり、いつも近くで、そのイエス様の行動を見ていたのでしょう。そして、イエス様の十字架の死と葬りの場面では、直接に手を出すことはできませんでしたが、いつも視線があり、共にいたのです。イエス様と共にあり、見守っていました。そこに残っており、墓の方を向いて座っていました。この女性たちは、イエス様の死と葬りに対して、深い悲しみにあったのでしょう。
大切な人の死と向き合い、葬りの場面を見て、悲しみがより深くなっていたのでしょう。そして、この女性たちが、初めての奇跡に出会うことになります。イエス様を信じることで、最も大切な奇跡です。人が生きること、それはいつか死を迎えることです。そして、葬られることです。私たちは、生きている中で、このことと向き合い、深い悲しみに落とされます。人間のとしての限界、人間としての無力さを深く感じる時です。人間はいつか死ぬべきものです。死んでしまったら、それですべてが終りだと感じています。その死を、私たちは味わい、いつの日か、自分にもその日がやって来ることを知っています。このイエス様の十字架の死と葬りの場面は、静かに過ぎていくような感じです。そこには静けさを感じます。
そして、初めての奇跡を、この女性たちを通して、私たちは神の奇跡を知るのです。それは、イエス様の復活です。次のマタイ28章には、イエス様の復活のことが書かれてあります。この女性たちが、安息日が始まったために、イエス様の葬りに対して、十分な手当てをすることができなかった。せめて、少しでも、きれいに葬りたいと願い、このイエス様の墓に向かって、女性たちは歩いていくのです。安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアは墓を見に行きました。すると大きな地震が起り、墓を覆っていた大きな石がわきに転がりました。そこに天使が、天から下って近寄り、石の上に座っています。天使は、この女性たちに「恐れることはない。十字架のイエス様を捜しているのだろうが、ここにはおられない。かねていわれていたとおり、復活なさったのだ。」と伝えました。それを聞いた女性たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちのもとに走って行きます。
この女性たちが、イエス様の十字架の死と葬りと、そして復活に立ち会うのです。この女性たちによって、イエス様の復活は、イエス様の弟子たちに伝えられ、そして、今日、私たちに伝えられているのです。イエス様の十字架は、私たちにとって最も大切なものです。その十字架は死だけでなく、復活も含んでいます。十字架の死と復活なのです。イエス様の復活、それがあって、私たちの救いが完成していくのです。イエス様の死と復活、それは、私たちの死と復活です。復活の希望が、イエス様によって、与えられています。感謝なことです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス様の十字架の死と葬りのことをみてきました。それは、それで終るのではなく、新しい始まりである復活につながっていくことをみてきました。イエス様は復活された。そして、私たちも復活に預かることができることを知っています。その復活の希望をしっかりと持って、それぞれの信仰の歩みをしていくことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。