ポツリポツリ
noteでポツリポツリと文章を書いている。気付くと書き始めてから一年以上経過していた。
誰かに読んで欲しいという気持ちがあるからnoteという箱を選んだのだが、沢山の人に読んで貰うた為の努力は全くと言っていいほどしていない。
時間に余裕が出来たのでnote創作大賞の結果を調べてみた。僕にはその面白味が分からない作品が多かった。かといって自分の文章の方が面白いという気持ちもない。僕の面白いというか、好きだと感じる感覚が世の中のマジョリティから外れていることを再確認した。ただそれだけのこと。
僕はこの世界で端っこにいる。自我が芽生えた頃から、この感覚は変わっていない。拘りが強すぎるのか、それとも自分を受け入れて貰えない世界に背を向けてしまっているのか、世の中にすり寄ろうとする、「迎合」という言葉が生理的に嫌いなのだから仕方がないことだと、小さなため息をつく。
それでもポツリポツリと読んでくれた人の反応が返ってくることがある。
とても嬉しい。
生きている貴重な時間を僕の言葉達に費やしてくれたことには感謝しかない。
昔、親友に言われた言葉を思い出す。
「広くは刺さらないけど、狭いけど深く刺さる」
僕という人間の評価。
仏教用語に「五欲」というものがある。
五欲とは、食欲、睡眠欲、性欲、財欲、名誉欲のことを指すのだそうだ。
食欲や睡眠欲は日々の生活で必要な分だけ満たせばよい。そしてそれは誰の手を借りることなく自分独りで満たすことが出来る。
性欲については30代の頃に一度背を向けた。遺伝子というプログラミングなのか神が考えた設計図なのか、自分の知らない何者かによって、自分が自分でなくなり、指示されることに反逆しかったから。
もがき苦しんで反抗した結果、自説を曲げて変節した。というか、如何に反論しようとも、その反論する自分自身の存在は、性欲というものを持つ自分の肉体の上に成り立っているのだから、その矛盾から逸脱することが出来るわけもない。
そうして性欲は自分自身が存在する前提条件だということを「ただ」受け入れた。そのことに10年もの月日を費やしたのだから、自分という人間はやはり頑固で意地っ張りなのだろう。
その反動なのか、それとも人生のタイムリミットが近づいてきているのを感じていたのか、40を越えて女の尻を追いかけまくった。
ビギナーズラックに恵まれたこともあるが、やはり沢山の女性にそっぽを向かれ枕を食いちぎる程の悔しさや惨めさを散々味わった。それでも諦めずに続けたからなのか、少なくない人数の女性との交わりと別れを繰り返し、今はそれなりに性欲を満たすことが出来ている。
五欲の残りは二つ。4番目の財欲。
財欲についてはひどく低淡だ。昔からあればあるだけ使うし、無ければ無いなりに過ごしてきた。貧乏ネタと同じ分だけ散財ネタがある。そしてお金というものを教えてくれる人達に沢山出逢えたことが大きかった。
人よりも僕が運が良いと思うのは、平凡な社会生活を送っていながら、本当のお金持ちの人達と幾人も出会い言葉を交わすことが出来たからだ。きっとそれは僕がお金に無欲だったからだろう。彼等の人前では決して見せない、寂しそうな姿を傍で見てきた。
「持つものの苦しみ、持たざるものの苦しみ」
そうして僕は自分が選んだのは持たざるものの苦しみというか「気楽さ」だった。
そして五欲の最後、名誉欲。
これについては人一倍あった。若い頃はだ。自分が何者かに成りたくて、成れなくて、一人勝手に挫折を繰り返しながら今に至る。
昔は自分が見えなかった。だから沢山の人たちに影響を与える何者かになろうとしていた。でも自分とそれなりに付き合いが長くなると自分はその「何者」にも成れないことに嫌でも気付く。
それでも僕は「何者」になることを今も諦めていない。自分は多くの人に評価されることの無い人間にも関わらず、それでも諦めきれないのは正に僕が背負った「業」なのだろう。
生を性を肯定すると決めた。
だから僕は僕自身が抱える「業」を肯定する。
惨敗という結果しか見えなくとも、前に進む。生の結果は死と決まっている。だけどその過程は決まっていない。そしてその過程は自分が選択できる自由の範囲内だとすれば、自由から逃げずに立ち向かっていく。
そう決めた。だからまた描き続ける。