体感したことの無い世界への夢想は様々な記憶の断片の継ぎ接ぎによって新たな世界を創り出す。 旅の目的地に降り立つ。一人の女性が待っていた。微笑みを浮かべて近寄り握手と挨拶を交わす。40代半ば。整った顔立ちは都会的だが、化粧で隠していない目尻の皺が馴染んでいて田舎暮らしで取り戻した心の柔らかさを感じる。 穏やかな陽光に照らされた雛びたバスの待合所から少し歩くと穏やかな流れの河が現れた。対岸が少し霞んで見える。河幅は百メートル以上はあるのだろうか。透明度が高く、岸辺から覗き込む
餓狼として人に会うつもりはない。だが絶対に合わないというほど頑なでも無い。 一人だけ実際にお会いした人がいる。 その人は激しい狂気を静かに孕(はら)んだ人だった。エリック・サティのピアノのように、淡々と、ぽつぽつと語る言葉のリズムと裏腹に、そこに綴られる物語は、身体に抱えている欲望が物質化して熱くドロドロになって、彼女自身が焼き尽くされようとしていた。 一人称なのにどこか自分に投げやりで遠くから俯瞰している、そんな醒めて乾いた言葉の使い方とのギャップに酷く驚いたのと同時
好きにも色んな好きがある。 単に眺めているだけで満たされる好きもあれば、リアルに交わってセックスしたいという好きもある。陽向ぼっこしがら煎茶をすすり合いたい人もいれば、社会を生きる仮面をかなぐり捨てて欲望の底まで晒し会いたい人もいる。濃淡のコントラストが激しいのはきっと性癖なのだろう。 知名に手が届こうとする年になった今でも雄として生きている。ただ過ぎ行くままに枯れることを肯(よし)とせず、時間に抗って生を、性を貪ろうと足掻いている。 だからといって性急さは全くない。誰彼
note創作大賞に応募した。言葉が好きで、文章が好きで、自分が形にした好きを誰かに認めて欲しくなった。 羞恥心の塊として今も生きているが、若い頃と比べると幾分薄らいできたのだろうか。それとも人様の前に出せる程度には技量が上がってきたからなのか。それとも人前に出ることでしか磨かれないことがあると体感したからなのか。 理由はいくらでも考えられるが、自分の中で一歩踏み出す勇気が湧いた、その事実がとても嬉しかった。 ここ数日、中間発表が出てないか毎日のように確認していた。最終選
生きる為の必要最低限、食べる、寝る、セックスというが、自分という個体だけで捉えるとセックスは必要ではない。毎日セックスしなくても生きることは出来るが、食べること、寝ることを止めてしまうと人は死んでしまう。 ある意味、セックスよりも日々の生活に必要なのは物語かもしれない。今を生きることに必死だった原始時代でも人は絵を描き、音を奏で、踊っていた。部族の歴史は歌になり、物語として歌い次がれてきた。 「人はパンのみにて生くるにあらず」と、昔の偉い人は説いた。じゃあ何が必要なのかと
正装は和洋問わず簡素化の一途を辿っている。鎌倉時代の正装は直垂だったが、江戸時代は裃(かみしも)に変わった。昔は略装だったタキシードが燕尾服に取って代わり現代の正装となった。 何が正装なのかビジネスマナーなのかは時代によって変わる。その基準はルーツに左右される。ジーンズとTシャツは1950年代にジェームス・ディーンによって市民権を得たが、元は下着と作業着。だから正装足り得ないと、少し前のクラブのドレスコードでは不可だった 最近、ビジネスシーンにおいて女性の制服が廃止され、
note創作大賞のエッセイ部門にエントリーした。本命一つと残り二つはついで。 応募期間が終了したことで一息ついた。で、気付く。 「エッセイって何?」 賞にエントリーまでしておいてその問いには自分でツッコんで、自分でコケてしまった。 困ったときは辞書を引いてみる。(以下、goo辞書から引用) エッセー【essay】(英) 自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。 これだけだと何を言っているのか分からないので更に辞書を引く。 散文(さんぶん) 韻律や定型
ペット《名》(pet) 楽しみの対象として飼育される動物をいう。一般には容姿が美しくかわいらしいこと、鳴声がきれいなこと、性質が明るく陽気で行動に愛嬌(あいきょう)のあることなどがペットとしての条件にあげられる・・・ ※平凡社「世界大百科辞典」より引用 僕の容姿は人に不快感を与える程、醜くはない。気を付けて小綺麗にはしているが、さりとて特別抜きん出るほど美しくもない。あえて他人と異なる特徴をあげるとするならば2点。 思春期から知識を貪り続けていること。そして、他人との距離感
前回、下記の記事を書いた。 そもそもなんでこんなことをしたのかリード文が全くなかったので、読んだ人は「村上春樹のモノマネか」と思ったことだろう。 確かにモノマネである。だが、意図の全く無いモノマネではない。美術を専攻する人が始めに学ぶのがデッサン。対象を見て模写することで対象を正確に写し取る技術を学ぶ方法だ。では文章を書きたいと思い、その方法を学ぼうとデッサンをしないのは何故だろう。 僕が深く影響を受けた作家は沢山いるのだが、その中でも「文章を書く」ということで言えば花
「絵を見ている時、あなたは何を考えているの」 日曜の午後、リビングで帆船模型を組手立てている時に彼女はそう聞いてきた。しばらく手を動かしながら考え、彼女に答える。 「自分の心の揺らぎを眺めているのかもしれない」 「心の揺らぎってどういう意味?」 特別な意味はないのだけれど、と前置きをして答える。 「絵を眺めていると心というか頭の中に色が浮かぶことがあるんだ。勿論、それは比喩的な意味での色であって、頭に浮かぶ景色はモノトーンで出来ているから実際の赤とか青とか、目で見え
浮薄な人であると自認している。 高校の授業中、松尾芭蕉の奥の細道の冒頭分に打たれた。 「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」 (月日は永遠の旅を続ける旅人で、去る年も来る年も同じように旅人だ) 「ここではない、どこかへ」 心の奥底に潜んでいた渇望を芭蕉の一文に鷲掴みにされ、陽の当たる場所に引きずり出された僕の剥き出しの魂は、まだ見ぬ世界に恋い焦がれ、テレビには映らない、本やラジオで知った地名や景色に思いを馳せ狂おしい程の熱量を体内に溜
「せ~んろはつづく~よ ど~こま~で~も~」 原体験は人生の方向性を決めてしまう。 食べ物はまさにそう。昆虫食に違和感を全く感じない山の民。一方、海の民は嫌悪感しか覚えない。でもそれは完全に村社会の刷り込みでしかない。冷静になってエビの身体の構造とイナゴの身体の構造を眺めてみる。涎を滴してしまう対象と怖気が止まらない対象にどれだけ違いがあるのだろうか。鰻も蛇も同じぐらい旨いのに、日常的に蛇を食べないのは民族が培ってきた食文化の歴史が異なるだけ、ただそれだけのこと。 子供
時代の空気を瞬間的に切り取るのが大衆文学。 時代の経過に伴う風化に対し耐用年数が長いものが純文学。 純文学作品を扱う芥川賞は芥川龍之介。では大衆文学作品を扱う直木賞はと聞くと、現代人は直木のフルネームを答えることが出来ない。ましてや直木三十五が書いた小説を読んだことがある人はほぼ皆無。だから大衆文学は生まれた瞬間から古び朽ち始めていくのは仕方がないこと。 だが現代人は本が売れないこの時代でも直木賞受賞と帯に書かれた本を多くの人が買い求める。それは今、同じ時代に生きている
僕は田舎のシティボーイ。 小学生時代は冬でも短パンをはいて、外で元気よく遊び回っていた。”週刊少年ジャンプ”(注1)の中で中学生になった翼くんと日向くんが全国大会決勝で戦っている頃、僕らも負けじと日が暮れるまでボールを追っかけていた。そして喉が渇けば100円を握りしめ近所の駄菓子屋で”瓶コーラ”(注2)と粉ラムネを買う。コーラに粉ラムネを入れ、ブシュッと泡が瓶から飛び出す瞬間にカプッと口で覆い、涙目で咽びながらも全部飲み切ることが最も格好いいヤツだという、今考えれば訳の分か
あかりちゃんは生意気だ。 仕事で何かにつけて食ってかかってくる。的はずれな時も無いではないが、でも大体が大人が無くした大切な何かを気付かされることが多く反論しようとしても、その反論が自分が汚い大人だということを突きつけられて、つい「うっせえ」と言いたくなる。 でも好奇心旺盛で、時々目を輝かせ「それやってみたいな」と純真な目を向けて嬉しそうに言ってくる時はとても可愛い。 彼女には隠し事がある。僕は人よりも繊細で敏感だから気付いてしまった。ふとした瞬間にスカートからすらりと伸び
「身体のどこが感じやすいっすか?」 彼の性癖を紐解こうとインタビューした時、逆に彼は僕に聞いてきた。 人の快楽耽り方はひとそれぞれだ。僕の場合は「ミル」という行為に淫している。男は視覚野でセックスするというが、僕の場合はその極端な例のだろう。 「チンコオンリー」 「え~、それもったいなくないすか?」 「何が?」 「だって自分が気持ち良くなるためにセックスしてるのに一ヶ所しか感じないなんて」 「そうかな?別に今のセックスで満足してるけど」 「っていうか、踊ってんでしょ?体感