悩みは尽きねど
好きにも色んな好きがある。
単に眺めているだけで満たされる好きもあれば、リアルに交わってセックスしたいという好きもある。陽向ぼっこしがら煎茶をすすり合いたい人もいれば、社会を生きる仮面をかなぐり捨てて欲望の底まで晒し会いたい人もいる。濃淡のコントラストが激しいのはきっと性癖なのだろう。
知名に手が届こうとする年になった今でも雄として生きている。ただ過ぎ行くままに枯れることを肯(よし)とせず、時間に抗って生を、性を貪ろうと足掻いている。
だからといって性急さは全くない。誰彼構わずにセックスしたいと激しく希求していた頃もあったが、肉欲だけでは満足できないところまで辿り着いた今は、心が交わらないと身体を交えようとは思わなくなった。多少は大人の余裕みたいなものを手に入れられたからかもしれない。
女性はいつも深く交わりたいと考えるほど浅くはない程度の経験はしてきたつもりだ。勿論、深い心の交わりを求める時の方が多いのは事実。
昔、宿り木だった時代がある。傷付き痛みが強く一人では上手く飛べなくて、巣立つまでの間の寄代(よりしろ)として生きていた。
あの頃は苦しかった。自分の手元で少しでも長く愛でたい欲望と、一人飛び立ち、番(つがい)を見つける強さと勇気を得て欲しいという葛藤に苦しんだ末、今ここにいる。つい数年前の話。未だ具体的に綴ろうとすると強い痛みが走る。
自分は今、何を求めているのだろう。
弱さに寄り添う優しさは、欲望に塗(まみ)れていないのだろうか。
自分が人から貰った優しさを、エゴの埃を吹き消して、人に伝えることが本当に出来るのだろうか。
それとも僅かな隙間を埋める程度の淡い欲望混じりでも、穏やかに人と繋がることが出来るのだろうか。
不惑を何年越えても木鶏にはなれない自分の不甲斐なさを噛み締めながら今日も自問自答する。
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