12番目の瞳 その1~最強のサッカーフォーメーションって?~
今日はもうひとつ投稿を。
こちらのふざけたタイトルですが、もちろん原題は某名作戦争小説から取っています。
サッカーにおいて背番号12はサポーターナンバー→12にちなんだものをタイトルに付けたい→ならば12番目の瞳でいこう! 毎月12日に投稿を目指すぞ!(この間わずか5秒ほど)
という数式です。みんな許して…………
さてさて、この『12番目の瞳』というサッカー企画ですが、目的は『読んでくれた人のサッカーIQが上がるような記事』を目指しています。
なのでどちらかといえばサッカー初心者に読んでほしい記事群ですね。まだいらっしゃらないかと思いますが「お前の文章おもしろいから上級者だけど暇つぶしにでも読んでやるよ」という方ももちろん大歓迎です! むしろそういう先輩方とも刺激し合って日本サッカー界を良きものにしていきたく思っております。
記念すべき第1回のテーマは、サッカーにハマった人なら誰もが思ったことがあるであろう『最強のフォーメーションとは?』というものです。
これについて結論を予め出せば『そんなものは存在しないから、自分たちのやりたいことをやり続けるか、相手にやらせたくないものを徹底的に封じることを考えたほうがいいよ』というものになるでしょうか。詳しく解説していきます。
まず前提としてあるのは『サッカーとは人の生業である。故にサッカーはナマモノである』ということです。これはどういうことかというと、時代の移り変わりによってサッカーのやり方は変わっていくよ、ということでもあります。
サッカーの歴史を振り返ってみると、今では考えられないことですが、自分より前の選手にパスしただけでオフサイドになった時代というものが存在していました。
故に当時の主流フォーメーションは現存のフォーメーションと真逆と思える2-3-5。要は5トップが横パスしながらドリブルでかわしていくという試合展開が当時のオフェンスの主流でした(今考えるとピルロやデル・ピエロが大成しなかった未来があったかと思うとぞっとしますね)。
そんな状況を変えたのがオフサイドルールの変更です。
無条件で前方へのパスを禁止→最終ラインの枚数次第で前方のパスを禁止→DFの枚数関わらず最終ラインより前にいた選手へのパスを禁止
と変わっていき、それに応じてサッカーは守備重視気味な布陣へと変わっていきます。
私の好きなイタリア代表の代名詞であるカテナチオが時代遅れになったのも、3バック+スイーパーという現代のオフサイドルールに即さないものになっていったのはおもしろい現象ではあるのですが。
そしてほぼ現状のオフサイドルールになったある時、ひとつの結論が出ます。それは『最終ラインのスペースを埋められる最低人数は4人である』というものでした。
そこから守備を完璧なものにするために4バックを敷き、それを崩すためにおまけポジションだったSBがオーバーラップする時代(90年代頃)になりました。
フォーメーションというか世界の基礎知識として皆さんに知っておいてほしいことなのですが、この世界はひとことで言えば『緊張と弛緩』が延々と繰り返されているもの、といって間違いないかと思います。90年代には出そろった4バック最強論を崩すため、天才たちはある理論を提示したのです。
それは〇ラムダンク風に言えば『中盤を制するものが試合を制す』というものでした。それ以前は『中央線を制するものが試合を制す。ならば中央を活かすためにSBを攻撃参加させる』という哲学が出始め、それこそ中央絶対時代という緊張に対するひとつの弛緩、と見ることもできなくはありません。それを当時の天才たちは中盤を厚くして試合展開を握ることを考えはじめたのです。
それが表立ったのは当時のブラジル代表でした。ブラジルといえば伝統的に4-2-2-2を敷くチームですが、なんとこの時期のブラジルの基本フォーメーションは3-4-1-2。4枚の中盤を5枚にすることで相手に優位を取れるとしたブラジルは世界初のアジア開催となった日韓W杯を見事制します。
その中盤絶対優位の緊張を解きほぐしたのはバルセロナだったイメージがあります。当時のバルサのフォーメーションは4-1-2-3。アマチュアサッカーではそれぞれのポジションの役割がはっきりしていると人気の布陣ですが、バルサは『3バックは両サイドのスペースが弱点だ。ならば3トップの両ウイングに積極的にシュートを撃たせて(当時のウイングはクロス専門だったところがあった)SBのオーバーラップで試合を握ってしまおう』と考えたのです(ちなみにその当時のLWGはロナウジーニョでRWGはメッシとなかなかにすごい時代でした)。
その布陣は世界に革命を起こしました。即座にクロッサータイプのウイングが絶滅危惧種となり『サイドを制するものが試合を制す』となったのです。90年代~00年代までの最強フォーメーションの変遷を辿れば
4-2-2-2(中央線の時代)→3-4-1-2(中盤の時代)→4-1-2-3(サイドの時代)
となるでしょうか。わずか20年の間にこのような革命が起きたのは、いまだかつて世界が経験したことがないものでした。
さて、サイド最強の時代も飽和状態になり、そこに風穴を開けたのは日本人にもなじみの深いアンドレス・イニエスタ擁するスペイン代表でした。
バルサとマドリーの混成という仲の悪そうなチーム、というのはスペインの悪口の定例句となっていますが(苦笑)、当時のスペインを貫いていたのはマドリードの前に落ちぶれる寸前のバルサだったと思います。
スペインの革命を語れば『頭脳戦を制するものがゲームを制す』というある意味パンドラの箱でした。これはある意味サッカー界にとっての悪夢でもあります。
なぜならチャビやイニエスタといった『身体能力が圧倒的に足りない選手を主軸に据える』という普通なら考えられないことを堂々としでかして南アフリカW杯を制したのですから(ちなみにこのチームのリザーブには久保建英の影分身とも呼ばれる我らがアイドル、ダビド・シルバという身体能力に劣った選手もいます)。この時のスペイン代表ほど『頭脳に優れたフットボーラーが一番優れている』を表現したチームはないと思います)。
その時代(2010年代)から後は頭脳へのメタとして『アスリートとしての能力』が高い選手でメンバーを埋めていくのが主流となっていきました。
天才レフティーダビド・シルバは2025年現在にピークを迎えたとしたら、彼が今持っている栄光を得られたかは正直不透明です。それはチャビもイニエスタも今ほどを持ちえたかという質問と同様で、現代はそのくらい選手個人の身体能力と高い頭脳の両立が求められています。
この話をすると私が思い出すのが元ベルギー代表のヨハン・バカヨコです。
彼の驚異的なものはそのアフリカの血が生み出す規格外の身体能力です。それは同代表のロメル・ルカクほどのスピードこそないものの、空中戦やフィジカルの強さはルカクを凌駕していたといっても過言ではないほどでした。
ではなぜ彼は忘れられた選手になったのか。ひとことで言えば彼は『馬鹿』だったからです。
ルカクをはじめとするストライカーというものは身体能力以上にポジショニングが命です。それもそのはずで、たとえ50mを3秒で走れる身体能力を持っていたとしても、ゴール前にこぼれたボールにより早く触れるのはセンターサークル付近にいる彼のような50m3秒よりも、ペナルティエリア内にいる50m6秒だからです。
そういった意味ではバカヨコのポジショニングは非常に粗削り過ぎた。さらにはプレー自体の精彩も欠いていたため、彼はベルギーの期待を背負ったものの、ダイヤの原石として世界に名をとどろかすには遠く及びませんでした。逆に言えば現代サッカー選手に求められるものがそのくらい増えているということなんですけどね。
そうなると『最強のフォーメーションとはなにか』では済まなくなっていきます。なぜなら選手個人の力量こそがすべてだという時代が到来してしまったのですから。
以降、最強のフォーメーション云々ではなく最強の選手を並べる時代へと世界は変わっていくこととなります。
サッカーをやったことがある人ならわかるかと思いますが、今のサッカー選手はJ1という世界的に見れば最強でないレベルのカテゴリにおいても非常にレベルの高いプレーを見せてくれます。観客としては楽しい、クラブ側としては非常に大変な時代というのが今といった印象は受けますね。
私が予言するならこれからは時代が巡り巡って『魔法を制するものが試合を制す』時代になっていくと思います。
現代サッカーにおいて不確定要素というものはもっとも嫌われるものです。それはかつてのファンタジスタを死の淵に追いやり、一時期の『魅せるサッカー』から『見えるサッカー』へと姿を変えさせました。
そのアンタッチャブルが起これば何もかもが狂う時代において、もし相手にバグを起こし続けられる選手がいたとすれば――――それはひとつのアンチフットボールとして輝きを放つでしょう。21世紀最高のテクニシャン・ロナウジーニョ、所謂テクニシャンではないものの、レジスタというポジションを独占したアンドレア・ピルロ、そして私が認める『真の天才』オーガスティン・オコチャ。彼らの再来がもし2030年代に現れたとすれば、現代サッカーは今以上におもしろいものになるかと思います。いやぁ、これだけでお酒が何杯でも飲めますね(笑)。
さて残りも少なくなってきたわけですが、最初に私が言ったことを皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか? 『自分たちのやりたいことをやり続けるか、相手にやらせたくないものを徹底的に封じること』というものです。
これは別に私の言葉ではなくて、元日本代表FWだった黒部光昭さんの言葉をアレンジしたものです。これを私の言葉で言い換えれば『緊張で相手を飲み込むか弛緩で相手を翻弄するか』といったものになるでしょうか。
当然のことですがサッカーというものは相手がいなくてはできないスポーツです。その相手をどうするかによって試合は動きます。
その主体が自分資本なのか、もしくは相手をコントロールすることに主眼を置くのか――現代サッカーの原理はこれに集約されていると思います。
とうの昔にこれさえやれば絶対勝てるという時代は終わりを迎えています。ならば我々はその自由な時代において大きなロマンを描いてサッカーを語ろうではありませんか。
サッカーとは本来自由なものです。その自由さが最大級に強まった、人類史上一番残酷でわくわくする時代が現代――私にはそう思えてなりません。