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リテラシーの教科書2~井の中の蛙~

「井の中の蛙 大海を知らず」

言わずと知れた荘子秋水の故事によるものですが、現代では狭い世界で偉そうにする人や自慢している人の世間の狭さを揶揄することに使われることが多いのではないでしょうか。

一つの考え方ですが、多くの人の「勉強する」という意味合いもこれと同じで、少しずれているように感じています。学生の勉強するというということは教科書をよく読み、教科書に沿った演習を行うことを指します。スポーツや芸術についても、マニュアルや教本・指導者がないと分からないと言います。
これらはほとんど受動的かつ過去に至る発想です。未来へつなぐ着想が不足しています。具体的には、感想文や論文、上達するための自分に合った体の使い方を考えること(例えば段階的に練習方法を変えるとか、別のスポーツの方法を取り入れるとか、食事メニューを作成するとか)が、自分が認知している範囲が井戸の中であり、外の世界があるかもしれないという足掛かりになります。

社会に出ると途端に今までの考え方が通じないという壁にぶつかります。しかし井の中で過ごした蛙にはそれが何故だかわかりません。そして社会は大海があることをしっかりと伝えることはせず、大海を泳ぐ術を知る者は起業し、大海がなんたるかを知る者は良い会社に入り、ほとんど多くの者は井の中に撒かれるえさを食べて一生を過ごします。

どんなに優秀な本もルールも法でさえも、すべて誰かが過去に決めたものです。誰かが決めたレールの上を歩く限り井戸の中から井戸の外を知ることなく、井戸から脱出しようというクリエイティブな発想は生まれません。ビジネスの世界では、レールからはみ出した斬新なアイデアがないと大成功を収めることは難しいのです。なので自分がレールの上に居ることを、まずは自覚することから始めます。

昔ジョンレノンが言いました。「この和音は俺が生み出した」と。自信をもって世に宣言すると瞬く間に流行しました。
しかしそのアイデア、既に300年ほど前にベートーベン等が気づき、作曲のマニュアルとして出版しています。

「アイデアは自分の経験したものからしか生まれない」という話をよく聞きます。確かに知らない情報が勝手に降りてくるということはありません。もしかしたらジョンレノンのように、井戸の中って知らなかったけど一所懸命壁を這い上がっていたらたまたま脱出できたということもあるかもしれませんが、圧倒的に低い確率であると言えます。なので先人たちから学んだ方が効率が良いです。なにせ述べ1000億人のひとたちがいままで生きてきたわけですから、成功例も失敗例も、自分ひとり(あるいは身の回りの人)よりもはるかに情報量が多いのです。まずは読み継がれている書籍などがおススメです。

では先ほどのジョンレノンが成功した例は具体的にはなんだったのか。
一つ目は時代(タイミング)です。
例えばQRコード決済がこの2年で大幅に広まったのは、5%還元という政策にマッチしたからです。非接触決済felica方式が既に2002年ごろからあったわけで、それよりも技術的な難易度の低い2次元コード決済が技術的に出来ないわけがありません。ですがsuicaから生まれたfelicaがあり、自国産OS携帯におサイフケータイとして実装されていく際に、QRコードによる決済のアイデアはあっても市場に広まることはありませんでした(QRコード自体はこれも自国産でfelicaより前からありましたが、決済機能としては遅れました)。

二つ目は組み合わせです。
クラシック音楽の上にあるコード進行が、電子楽器によるrockとあいまってビートルズ独自のサウンドを生み出しました。rockというイメージに囚われないジョンの自由な発想が、たまたまクラシックの知識にたどり着いたという知恵の活用です。

しかし、知識が先かアイデアが先か。ジョンがクラシック音楽を学んでいればもっと早くにそのサウンドにたどり着けたかもしれません。或いは知識が先行していたら自由な着想にたどり着けなかったかもしれません。
ここにアイデアのジレンマがあります。

が、ここには敢えて知識を得ていこうということを提言しています。
何故なら正しい知識が、それ自体が発想の邪魔をするわけではありません。アイデアの邪魔をするのは知識ではなく、読み取る人の先入観だからです。
バタフライ泳法が最初は平泳ぎの延長で生まれたように、発想の転換が必要です。

先に例に挙げましたが、ルールもマナーも法でさえも、誰かが勝手に決めていて、我々の多くはそれに乗っかっているだけです。ホリエモンやミスチルが言う「ちょっとぐらいはみ出したっていい」というのは、人に迷惑がかからないように上手くこなせば少し破ってしまっていいということです。一応、念のため、だからと言って車が来ていないからと信号無視したり、誰も使っていない家に勝手に住んで良いというような話ではありません。決められたルールは民主主義の上に成り立っていることが多いので、それを当然破ると非難されます。法を破れば罰則もあります。

着眼点は、誰かが決めたルールを言われたままに額面通り受け止めるのではなく、自ら解釈し目的のために使いこなす側に立つことです。
スポーツは良い例で、そもそも戦争の代用として世の中を熱狂させているわけで、相手を打ち負かすために戦っています。ひとつの井戸の中にルールを設け、中で熱中したりそとから見て熱狂したりします。経済活動でいうところのひとつの市場です。スポーツは井戸の形がおおむねしっかりしているので、市場の中では概ね公平性が保たれています。スポーツマンシップはきれいごとですが、ルールを設けないとどんなスポーツもただの殴り合いになってしまうので、競技が成立するよう民主的にルールを設けています。
しかしどんなスポーツもそのルールについて何度も改定が行われています。しかも公平性の名の元、自陣が有利になるようにするため井戸の形を政治的に決められることが少なくありません。

日本はその政治力が弱いので、例えば長野オリンピック直後の1998年にスキー板の最大値が身長+80cmから146%に変更されました。これにより背の低い選手の多い日本人に不利になったと騒動になったことは記憶にあると思います。長野五輪後のスキージャンプ日本勢不振をそのためと言いたくありませんが、ルール変更により不利になる際に適切なプロセスで抗議できなかった良い例に違いありません。なぜならこの時、軽いほうがよく飛ぶから「痩せすぎが良くない」ことを問題点として挙げていて、その後の繰り返しの変更で現在ではBMI値21未満の場合は、身長×145%から段階的に最大値が短くなるよう決められているからです。
痩せすぎが問題なのであれば、ボクシングのように最初から体重(BMI)のみを基準にすればよく、板の長さが身長+80cm→146%になる説明がつきません。これは1998年の変更が身長差別でアジア人に不利に働き、公平性に欠ける内容であったことを正当化するための処置であることは理解できるでしょう。
少なくとも連盟に日本人が名を連ねていたわけですから、決定前に選手の声をしっかりアピールする必要があったと思います。
ジョンレノンのようにしっかり自分の主張を宣言しないと自らのフィールド(新しい井戸)に引き込むことは出来ません。

選手は井の中でしか泳げず、ルールを決めるのは政治ですが、どちらもメリットがあり、立ち位置は全く違うので、独りですべてをこなすことは非常に困難です。井戸の中と外と井戸自体を知り、その中で自分はどこに立ちたいのか。自分の得意を延ばす方向はどこなのか、自身で考え学び続けましょう。

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