【香港旅行記③-1】故人に魅せられて
全てを飲み込むバケツ/白昼を歩くネズミ
3日目朝、幾つかの飲食店で食事をしてきて分かったことがある。それは、「香港人はめちゃくちゃ食べ物を残す」ということ。だいたいどこのお店に入っても、食べ残された食事が、帰らぬ主人を辛抱強く待っている。やがてテーブル上にそれらが溜まってくると、どこからともなくおばさんが登場し、20Lくらいはありそうな片付けバケツを引きずりながら、食器と残飯を分け隔てなく突っ込んでいってしまう。ここにいると、食事が食べられなくて困っている人など、この世にいないかのように錯覚してしまう。そういえば、中華圏は食べ物を残すのが礼儀だみたいな話を聞いたことがあるような。
そんなことを考えながら、朝食のサンドウィッチをつまみ、アメリカンを更に3倍に薄めて砂糖をひとつまみ入れたようなコーヒーを流し込みながらふと後ろを振り返ると、長い尾を引き摺るネズミがのそのそと歩いている。こんなにも明るいところを、またこんなにもゆっくりと歩くネズミを初めて見た。
台湾では、サンドウィッチは「三明治」と書く。発音は(カタカナ表記するなら)サンミンヂィ。音が近いことから当て字されたようだ。ところが香港では「三文治」。カントン語でこれをどう読むか、(店員さんの発音が聞き取れないので)今調べてみたら、サーマンヂーという感じだった。どちらがよりサンドウィッチに近いか、ディベートのテーマにしても面白いかもしれない。
でもサンドウィッチ自体も、伯爵の名前から来ているんだっけか。あれ、というかサンドウィッチがそもそもsandwichを音訳しているのか。ということは、かの伯爵は、東洋の各国でちょっとずつ間違った発音で覚えられているということになる。正しい発音とは何か、ということを考え込んでしまう。
香港の故宮へ
くだらないことに思考を巡らせていないで、今日何をしようか考えよう。いつものようにGoogleマップで街を見ていたら、香港島に渡る地下道の手前に、「香港故宮美術館」という美術館があるのを知った。台湾にも、故宮博物院という、蒋介石率いる中国国民党が台湾に持ち込んできた、それはもう素晴らしい質の大陸美術を集めた美術館が存在する。その同じ名を冠するくらいだから、さそすごいに違いない。と思いながら開館カレンダーをチェックすると、明日2/10(旧歴1/1)が正月休館である。明後日に回すよりは、今日行っておこうと、徒歩で向かうことにした。
3日目ともなるともう慣れたもので、車がないときを狙って適度に信号を無視しつつ、道路をサラッと横断し、ガードレールを跨ぎながら、ルンルン気分で歌を口ずさみながら足を向かわせた。Googleの指示通りに行ったら50分のところを、20分で到着。かなり得をした気分になれる。
美術館につくと、ちょうど開館の10時前で、ツアーバスが何台も泊まり、大量の中年層で溢れかえっていた。自動チケット券売機で常設展チケット(60HKD、約1152円)を購入し、エントランスをくぐると、荷物検査が待ち受けていた。かなり厳重だ。
全体が9つの大きな展示室に分かれており、そのうちの7つが常設の展示だった。ギャラリー1-7が、通常チケットで入場できる範囲。この日は8-9で、普通の美術館がやるような、印象派展をやっていた。この辺は台湾の故宮とは違う。
しかしさすが故宮の名を冠するだけあり、見所ばかりだった。スケッチブックを開いて、気になった作品を観察していく。以下、写真とスケッチを載せる。
ここ2年ほどで、アジア各国の美術館でスケッチを続けてきて、わかったことがある。それは、人のスケッチを覗き込む、あるいは見たそうにするのは、べちゃくちゃとうるさい人間ばかりであること。これには年齢や性別はあまり関係がない。子供の方が多いのは多いのだけど、よく喋るのは、子供の特徴でもある。
彼らは必ず、斜め後ろに立って、バレないように(バレている)覗き、家族のもとに戻って報告をする。大抵は聞き取れないけれど、報告しているのは分かる。こちらも迷惑をかけている側なので、別に覗かれても噂をされても構わないのだけれど、なんかうるさいのがいるな〜と思いながらスケッチを書いていると、その当人がのぞいてくるので、とても面白いのだ。(当然、覗く時は無言になる。)
彼らの好奇心は、展示よりも、珍しい人間や家族とのおしゃべりに向けられているようだ。いろいろな楽しみ方があって、良いと思う。
ここに収められた宝物は秦、漢、清など、古代中国の品がほとんど。キャプションには「中国、〜時代」としつこく書いてあるけれど、一括りにしてはいけないと思う。中国美術がすごいのではなく、今中国がある広大な場所の一部にあった、昔の国の美術が素晴らしいだけ。現代中国の国土デカすぎ問題。和辻哲郎も、こんなことを言っていた気がする。
ビルに挟まれた寺の違和感
続いて、大鑽山(ダイヤモンドヒル)のふもとにある志蓮淨苑 天王殿という名の仏教寺院へ向かった。香港では割と大きめなお寺っぽくて、結構期待していた。唐様のような丈の高さと、日本仏閣のようなディテールが組み合わさっているそうだ。
しかし、見に行って残念な気持ちになった。全体のプランや、斗拱などのディテールの形や、瓦の吹き方とか、建築の構造はほとんど一緒なのに、違和感がありすぎる。申し訳ないけれど、“気持ちが悪い”と表現できる感情が湧き上がる。
ぱっと見は違和感がないのだけれど、見れば見るほど、その薄っぺらさに、ハリボテ感に気づいてしまう。木材はチョコレート色の防腐塗料で厚く塗り込められ、仏像も金ピカの光沢を携えている。近づいてみると、菩薩や如来の表情や身体の彫刻がなんとも稚拙で、フィギュアを大きくしたような、技巧の低さを感じる。何処からか聞こえてくるお経でさえ、本殿の前に設置されたスピーカーで流されている。入口に戻って振り返ると、五重塔の数倍は高い高層マンションが、お寺を見下ろしている。これではありがたみがとても感じられない。
日本の仏教こそ本物で、これは偽物だ!とはとても言えないけれど、美学という観点で見れば一層劣ると言っても間違いはない。しかし、これもまた仏教なのだろう。美意識の違いが違う姿を作る。
法隆寺に訪れたときのピリピリした感じが忘れられない。鑽石山から斑鳩の地に想いを馳せることになるとは。何を信じるかはその人次第だけど、この程度の威力なら、仏教を信仰する人も少ないだろうと思った。
すぐ隣の中国木構造建築芸術館へ。規模が想定よりも小さい。そこの展示で、先にみた寺が、1997年建立ととても新しく、カナダから取り寄せたイエローティンバーによって建設されたという情報を入手した。
偶然にも、僕と生まれ年がまるきり一緒だ。先ほどあげた感想が、自分に返ってくるようで皮肉を感じた。新しいから、まだ若いから、小綺麗だから、便利になっているからと言って、本当に価値がないのか?というのは、正しい眼で見て考えなければならない。
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