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【カラマーゾフの兄弟 読破の道_16】心にぽっかり開いた穴【完】

10/8(火)

 10月も二週目に入って、さすがの台湾も気温が下がり、今日は長袖を来て出勤している。いつものように朝ご飯屋さんに自転車で向かう途中、涼しい風に吹かれながら、水の張られた寒々しい田んぼを飛び立っていく水鳥を眺めていたら、突然「寂しさ」を感じた。

 気温と幸福度には密接な関係があると思う。ロシアやウクライナは自殺率が高いと聞く。ほぼ年中雪に囲まれて、寒い思いをしながら生きていたら、寂しくなって憂鬱になってしまうからだろうか。名作文学が生まれるのも寒い地域が多い。ロシアのトルストイやドストエフスキーは言わずもがな、日本でも、太宰治は津軽、宮沢賢治は花巻で生まれた。寒い場所で暮らすことの、どうしようもない寂しさを紛らわすことができるのは、文学しかないのかもしれない。

 昨日の夜、『カラマーゾフの兄弟』を読み終わった。かかった時間は16週間と1日、日数にすれば113日。この日記にも書いていたけれど、この間にはさまざまな出来事があった。仕事で挫折をし、韓国旅行に行き、3冊もZINEを作り、ときにはデートにも行った。それらと両立しながら、ほぼ毎日のように、この物語と付き合ってきた。カラ兄自体はまだしも、1週間に一度このブログを更新するという枷は、自分には結構重たくのしかかった。重りをつけて歩いているかのように、ずっと体に負荷がかかっている感覚だった。

 その重りがやっと外せたので、嬉々として、色々と積読していた書籍を読んでいる。好きな作家のエッセイを読んだり、日本人の台湾紀行文を読んだり。ああ、なんて楽な読書だ。意味が立ちどころにわかり、殆ど考えなくてもスルスルと読み進められる。ページをめくる手が止まらない気持ちよさ。これだけ読んでも、まだ1時間しか経っていない、これなら今日中には読み終われそうだ。じゃあ次は古本屋で買ってきた大江健三郎の小説を読もうか、それともマンダラについての新書を読もうか、、、

 あれ?何故その選択肢の中に、もうカラ兄がいないのだろう?これらの、サラッと読み終われて、どんどん次に進んでいく読書には、どういう意味があるのだろう?どこか物足りない、なぜか満ち足りない。ひょっとしたら、カラ兄という物語が濃厚すぎて、気付かぬうちに、心の容量が大きくなっていたのかもしれない。それが突然無くなると、心にぽっかり穴が開いた感覚になる。風が体を抜けていく。それに加えて、その風が冷たいのだ、朝方に感じた寂しさの正体が、分かった気がする。

 カラ兄との正式な分かれを告げるべく、その心に開いた穴を塞ぐべく、16週間を振り返って、少しまとめてみようと思う。

目的は達成できたのか

 このシリーズの0話で、Xを見る時間を減らしたいという目的を掲げた。カラ兄を読み切るまでXを開かない!と高らかに宣言したが、実は3週目くらいからちょくちょくタイムラインを眺めてしまっていた。ただ、全く意味がなかったかというとそうでもなくて、最終週くらいには、スマホを開いたときに開いてしまう選択肢の中に、XとInstagramとカラ兄が殆ど1:1:1くらいになった。この日記を始める前に比べたら、大きな変化だ。SNSというぶつ切りな、賞味期限の短い情報と同じくらい、150年近く前の長編小説に時間をかけている。そのバランスをうまく取りながら、読みこなせたのは一つの達成だと思う。

カラ兄がくれたもの

 「小説を読むことで何が変わるのか?」

 小説を読まない人から良く飛び出す質問の一つだ。僕なりの答えを言うなら「特に何も変わらない」と言うだろうか。カラ兄も同様だ。例えみんなが知っている名作小説でも、驚くほど長くとも、日常生活でカラ兄を話題にすることなんて殆どない。多くの人にとっては、その時間を語学や資格の勉強を当てたり、ニュースでも見ていることの方がよっぽどか有益だろう。一生懸命古典小説を読んだところで、これからの人生にとって何ら役に立つことはない、と乱暴に言ってしまうこともできる。

 かといって、本当に変わらないと思っているわけでもない。人に簡潔に説明できるような分かりやすい変化はないけれど、小説を読み通すことは、川の流れや風が岩を削るように、じわじわと人を変えていくと思っている。変わらないことと変わることが、同時に訪れる感覚。

 では具体的には何が変わるのか?いくつか真剣に考えてみた。
 ・読解能力の訓練
 ・他者の人生観や考え方を知ることで想像力が養われること
 ・物事に動じなくなること

 一つ目は当たり前で、読書を続ければ続けるほど読むのが正確になり、早くなっていく。単純に国語力とも言える。目的と手段が完全に一致している。読解能力がつくと、生きるのがちょっとずつ楽になっていく。広告とか告知文とかメールとか、現代人を煩わせる多くの文字たちに使う脳味噌のリソースを、減らすことにも繋がるからだ。

 二つ目は、長編小説独特の効用かもしれない。長くその登場人物と一緒に過ごし、その身体を借りることで、彼らを仮にインストールすることができる。そうすると、小説内に描かれていない場面でも、その人たちがどう振る舞うかが想像できるのだ。自分の中に、自分以外の人間を住まわせることができる。一人のちっぽけな人生の中に、数多くの、劇的な人生が蓄積されていく感覚。『100万回生きた猫』という絵本があるけれど、まさしくあんな感じで、たった一つの人生の中に、アリョーシャが、ドミートリイが、イワンが、スメルジャコフが、住みついてくれる。それらは数ヶ月後にはすっかり忘れてしまうかもしれない。でも例えば数十年後、尊敬していた親しい人が亡くなった瞬間に、アリョーシャのことを思い出したりしそうな気がするのだ。そのことを今、逆デジャブのように確信している。

 このことが三つ目の内容でもあって、例えば極端な例で言えば、これから先の人生で、「ポケットに血まみれのハンカチが入った男と遭遇した」として、カラ兄を読んだ人間と、そうでない人間が二人いた場合、前者の方が明らかに落ち着いて対応できると思うのだ。そんな仮定になんの意味があるのか、たかが小説ではないか、と人は言うかもしれない。でも逆にいえば、小説を読むだけで、それらを疑似体験できるのだ。

 他にもあるかもしれないが、カラ兄を読み終えた時点での、僕なりの回答はこんな感じだ。

おわりに

 ここまでお付き合いくださった方々、本当にありがとうございました。もしかしたら、また名作長編文学に挑戦するときに、このシリーズを再開するかもしれません。もしやるなら、『レ・ミゼラブル』か『アンナ・カレーニナ』か『戦争と平和』あたりになると思います。条件は、とにかく長いことと、できるだけ古いこと。気を長くしてお待ちいただけるとうれしいです。それではまた!

いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。

「エピローグ 第三章 イリューシェチカの葬式。石のそばでの演説」より

進捗

上巻:■■■■■■■■■■ 100%
中巻:■■■■■■■■■■ 100%
下巻:■■■■■■■■■■ 100%

カラ兄、読破。

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