【マレー半島縦断記①】南の国の太陽
2024年5月9日の午後9時、深夜便の飛行機に搭乗するために、空港へ向かうバスに乗り込んだ。2週間ほど仕事場を不在にするため、つい先ほど、引き継ぎのための長い話し合いを終えたばかりだ。旅立つ直前まで残業して大変だね、と同情されるかもしれないけれど、却って気分はとても良い。それは、少なくとも引き継がないといけない仕事ができていることと、自分を中心とした討論が数時間できたことが理由だ。まだまだ不十分だけれど、少なくとも、居なくなったら少しは困る存在になれているようだ。提出直前のこの時期にいなくなるのは申し訳ないけれど、こればっかりは3ヶ月前から決めていた日程なので、どうしようもない。どうか許して欲しい。
飛行機はシンガポールに飛ぶ。そこからまるまる2週間使って陸路で北に向かい、バンコクの空港から帰ってくる計画だ。つまり、シンガポール→マレーシア→タイと、国境を二度跨ぐ。『深夜特急』(沢木耕太郎)を読んだ10年前は、こんな旅をするのは夢のまた夢だったけれど、気づけばそれに近いことをしようとしている。今まで国名でつけてきたこの旅行記の名前をどうしようかと考えていたら、昔地図帳で眺めていた名前が頭をよぎった。僕がこれからしようとしているのは、まさに「マレー半島縦断」だ。こう表現すると途端に、国境をそこまで重視しない人に見えてきて、スマートだ。
「たまたまシンガポールの空港について、たまたまバンコクの空港から帰ってきただけなんです。主な目的は、マレー半島の景色を見ることでした。」2週間後の自分がそう嘯いていることまで想像してしまう良いタイトルだ。
台湾に住む利点
航空券はそれぞれ一万六千円くらいで予約できた。とても安い(※預け手荷物/保険/席指定などを除く)。日本の空港から飛ぶよりかなり安いんじゃないだろうか。これはとても重要な台湾の利点だ。日本を中心に地図を縮小していくと、東側には広大な海、北側は寒そうなロシア大陸、西には中国大陸、南には小さなアジア諸国…。という具合に世界が見える。日本から見ると、中国以外のアジア各国は、正直に言うと、大差なく見えてくる。まるで、自分もアジアの外にいるかのようだ。反対に、台湾を中心に縮小していくと、文字通り(東)アジアの中心に位置していることが分かる。日本が、韓国が、中国が、フィリピンが、ベトナムが、タイが、マレーシアが、シンガポールが、まるで台湾を守るために設置されたかのようだ。このように、各国との距離感が近く小回りが効き、また国土自体が大きくないこともあり、海外旅行はメジャーな休日の過ごし方である。こういう立地をしているからこそ、昨今の経済成長があるのだろう。まあ、こういう立地をしているからこそ、長年に渡り植民地化されてしまったのかもしれないけれど。
そんな台湾に暮らしている利点を、僕はしっかり享受できているのではないだろうか。軸足を台湾に置いて、アジア各国を見て回るなんて、5年前の自分が聞いたら羨ましがるだろう。いやもしかしたら、5年後の自分にも羨ましがられるかもしれない。
シンガポール・チャンギ国際空港までの飛行機は爆睡だった。皆が席に着き終わる前に既に眠りについていた。寝られることが確信に満ちていたため、文庫本をリュックから出すことさえしなかったくらいだ。時々聞こえるアナウンスで10秒ずつくらい起きたけれど、殆どは記憶にない。隣にどんな人が座ったかさえ覚えていない。
一つ思い出した。機内でちょっとした言い争いがあったのだ。英語でよく聞き取れなかったけれど、気の強そうなアジア人女性(黒髪ロングをセンターわけして綺麗なおでこを出し、タイトなパンツを履いている)が眉間にシワを寄せ、キレの良い発音で男性CAに文句を言っている。その後、機内持ち込みのキャリーバッグを通路に投げ出すように彼の方に渡し、席に着こうとしている。ちなみに、後ろには行列ができている。
「お客様、カバンが…」
「手伝ってくださる?」
「手伝うことはできますが、基本的にはお客様自身であげていただくようお願いしています」
「一人でいけるでしょ?」
「ですから、“一緒”にあげましょう(我慢強いCAは、togetherと2回ほど丁寧に伝えていた)」
(あからさまに不機嫌な顔になる女性)
その後、やっと一緒に持ち上げたと思ったら、なんと女性が急に手を離した。ほら、持てるでしょ?と言わんばかりに……。ここに至るまでに、そうなってしまうほど酷いことがあったのかもしれないけれど、久々にここまで意地の悪い人間を目撃した。どういう考え方で暮らしてきたら、こういう横柄な態度を取れるのだろうか。大きくなるまでに、叱ってくれたり指導してくれる人に出会えなかった、彼女の不幸を嘆きながら眠りについた。
絨毯敷の空港
午前6時、チャンギに着くと、アライバルゲートに向かうまでのロビーにたくさんの人々が寝転がっている。その量が多すぎて、人が寝ているというより、落ちていると表現した方が適切かもしれない。この場所はふかふかの絨毯敷のため、椅子で寝るより快適なのだろう。また、至る所に靴を脱いで歩いている人の姿が見える。ソファこそ置いていないものの、まるですごく大きなリビングルームのようだ。みんな僕と似たような境遇で、交通機関が動き出すまでここで待機しているのだろう。こんな日程を組むくらいだから、僕と同じようなお財布事情なのかと思いきや、年配世代のヨーロッパ夫婦だったり、中華系の家族連れだったりと、人種も年代もかなり様々だった。深夜便を選ぶのは、何も金額だけが理由じゃなさそうだ。
アライバルチェック(これは日本語でなんというんだろう?到着確認手続き?)は全自動(と言ってもわからない人のためのサポート人員が3人ほどいた)で、iPadを用いてパスポートを撮影すると個人情報が自動入力されて、あとは、旅行の目的とかどこに泊まるかとか、手で書かされていたものを、全てiPadで入力した。ゲートに行ってパスポートをかざし、指紋と顔認証をしたらゲートが開いた。さすが世界に誇るチャンギ空港だ。世の中の自動化はすごい速度で進んでいる。
両替所で一緒にSIMカードも購入できたので、同時に買ってしまった。店員さんは中国語が話せたのでとてもスムーズだった。パスポートを確認したときに初めて、僕を日本人だと認識(したかのように)し、「君の中国語とてもいいね」と褒めてくれた。素晴らしい接客術だ。シンガポール、マレーシア、タイに加えて、オーストラリアとインドネシアでも使えるもの(Sigtel Prepaid hi! Tourist SIM Cardというもの)があり安心した。国境を越える度にSIMを入れ変える煩わしさが、この旅の心配事の一つだった。使っているiPhoneが古くて、eSIMには対応していないのだ。
28日間で30シンガポールドル(約3447円)だった。半分の2週間しか使わないけれど、まあ許容範囲内の値段だ。とりあえず、2500台灣元をシンガポールドル(SGD)に、2000台灣元をマレーシア・リンギット(MYR)に両替した。街中の両替所はレートがまちまちなことと、ぼったくりなどが発生するというイメージから、マレーシアとタイの通貨の両替所を探すことも不安の一つだったので、気の良い店員が二つの不安を同時に解決してくれて、とてもハッピー。
日常と交流と自由を求める旅
今回も恒例の、旅のテーマを定める。なぜ毎回三つなんだろう、と自分でも思うのだけれど、三つってなんか収まりが良く感じる。
【日常のように旅をする】
今までの海外旅行は非日常だったけれど、アジアに限ってはもうそろそろ慣れてきた。シンガポールに到着するまで、殆ど何も意識しなかった(のでその部分をカットした)くらいだ。そこで、もっと日常のように旅をしてみたいと思った。なぜなら「休みをとって来ているのだから」とか「せっかくこんなところまで来たのだから」という意識が働くと、自分の行動が“もったいない”という感情に縛られてしまうからだ。疲れたらカフェに入れば良いし、文庫本を読み耽っても良いし、逆に中国語の発音練習や適切な運動は継続する。
【人と交流する】
前回の香港旅行は、人と関わることをしなさすぎた。人に頼ることは“弱さ”だと考えていたけれど、必要なときに頼れることは“強さ”だと気がついた。中国語と英語とスケッチというコミュニケーションツールを用いて、いろんな人と交流しようと思う。
【自由にスケッチする】
スケッチをするときに、旅先で見たものを見たままに書くという、自分で自分を限定するような変なルールができてしまっていた。考えたことのメモでも良いし、色をたくさん使っても良いし、図解化してみたり、逆にしっかりレイアウトしてみたりと、もっと多彩に使おうと思う。
シンガポールの中のインド
地下鉄に乗って、Indian Heritage Centreへと向かった。美術館に着いた5分後に、ちょうど無料の英語解説ツアーがあるというので、参加してみた。一緒に参加していたのはオーストラリアから来ていた若い夫婦。解説中に、ときどき疑問を投げかけてくれるので、楽しくクイズ形式で参加することができる。自分一人で見ていたら気づけないことばかりで、解説を聞くことの意義を感じた。インドから来たヒンディー教が、どのようにシンガポールに溶け込んで、独自のカルチャーを作っていくか、というのが主なトピックだった。思えば、ここに来るまでの間にも、沢山のインド人を見た。英語と中国語が聞こえてくるグローバルな都市国家、という点で香港と似ていると思っていたけれど、シンガポールの方が、ヒンディー系(インド系)とイスラム系(マレー系)の割合が高い気がする。
解説中にも、僕なりに見たいものやスケッチしたいものが沢山あって、声が聞こえるくらいの位置で好きに過ごしていた。「解説が終わったあと、いくらでも戻れますからね〜。次に行きますよ〜。」と3回くらい言われた。落ち着きのない子供のように映っただろうか。
約一時間の解説を終えたあと、また最初に戻ってスケッチを続けていた。途中、休憩がてら映像作品を流す暗いシアターに座ったら、急激に眠気がやってきた。そういえば飛行機の中でしか眠れていなかったな。気づけば、柔らかい長椅子にごろっと体を倒して寝てしまっていた。どれくらい時間が経ったのか分からないけれど、学芸員さんに、ここで寝られては困ります、と起こされた。
「すみません、昨日あまり眠れなかったもので」
「分かります。しかし、他のお客様から、体調が悪いのではないかと心配する声がありました。」
「体調はすこぶる良いんです。ただ少し眠たかっただけで。どうもありがとう。」
美術館から出ると、外は小降りの雨だった。移動が面倒だったので、目の前にあったインド料理屋に入った。パニプリという謎料理があって、これなんですか?と店員さんに聞いたら、とても説明に困っていた。それを見ていた支払い中のインド系女子大生(?)五人組のうちの一人が、「それとっても美味しかったわよ。」とおすすめしてくれた。ふた口サイズくらいのボール状の衣の一部分に穴が空いており、2種類のスープに浸しながら食べる料理みたいだ。トマトっぽい甘いスープカレーと、緑色の唐辛子?スープカレー。これが抜群に美味しくて、あっという間に平らげてしまった。
隣の露店でガネーシャとブッダの小さな銅像を買い求めたあと、徒歩でイスラム墓地へ向かった。最近は、だいたいどこの街に行くときも墓地から調べるのだが、下調べしていた7都市15墓地の中でも、トップ3くらいの期待を寄せていた墓地だったので、かなりワクワクしていた。
マレー半島最初の墓地へ
四周を厳重に塀で囲まれていて、ただ一つの出入り口を探すのに苦労した。バス停がある大通りから見える場所に、その墓地はあった。入り口に赤字でデカデカと、全部大文字で【ENTER AT OWN YOUR RISK】 と書いてあった。英語版の、「当方は一切の責任を負いません」だ。様々な注意事項がピクトグラムになっており、外国人である僕にも容易に理解できる。蜂が出ます、蛇が出ます、穴があります、見えにくい墓で足を躓く恐れがあります、ぬかるみがあります、倒木まであります…。またまた、そんなびびらせて〜と気楽に構えていたけれど、これが本当に気をつけるべきだったことは、すぐに知ることとなった。
墓地は異様な光景だった。高い木が沢山生えた広い敷地に、まるで自然発生した筍のように、ニョキニョキと不規則に墓石が生えている(ように見える)。高さと位置はかなり自由に見えるが、形のパターンは5種類くらいであり、大きさも大差がない。特徴的なのは、名前や生没年さえ書かれていない墓が大量にあるのだ。近くでよく見たけれど、「経年劣化で消えてしまったから見えない」のではなく、「最初から書かれた痕跡が見当たらない」。イスラム文化圏を観光するのは人生初めてなので、的外れな類推かもしれないが、イスラムというのは匿名性と抽象性を重視する宗教なのだろうか。モスクの幾何学模様のイメージと、似ている部分がある気がする。この後、北上するなかでいくつかモスクも見て回る予定なので、これから分かれば良いなと思う。
美しく静かな写真とは裏腹に、墓場観察中の僕は一人悲鳴を挙げていた。まずは蚊の多さだ。少しでも立ち止まると両手両足に群がる蚊たち。痒さと羽音にスケッチへの集中を妨げられる。さらに、蚊だけでなく、蟻が脚を登ってきて容赦なく噛みつくし、賑やかさを嗅ぎつけたのか、ハエまで寄ってくる。SMAPがかつてアジアツアーに赴いたときくらい、墓場の住民が集まっている。また、高い太陽も容赦なく僕を照りつける。汗がダラダラと流れ、汗の匂いがさらにファンたちを引き寄せるので、身体の不快感は極限にまで達していた。そんな状態で撮影とスケッチを敢行する中で、恐ろしいものを見た。大きなトカゲ(のようなもの)がいる。全く動きがなかったので、最初岩かと思ったのだけれど、目の先10mほどの距離、瞬きもせず、大きな眼に景色を反射させている。それを眼にした瞬間に「終わった」と思った。自分と同じくらいの大きさの生物が、柵も無しに目の前にいるこの状況が、すごく恐ろしい。蚊やハエや暑さや汗、道路を走るバスの音なんかが全て消えさって、釘付けになってしまった。動かない脚をなんとか制御し、静かに後ずさる。おまけにここは墓場である。墓を踏んでしまわないように気をつけないといけない。すると、どうやら彼もこちらの気配を察知したらしく、僕と離れる方向に歩き出した。大きな脚でのっそのっそと歩き、草むらの中へ消えていった。助かった。多分、全長は1mほどもあったろう。野生のコモドドラゴンだろうか。ただでさえ汗だくなのに、冷や汗までかくことになるとは。都市化された熱帯に潜む、生物たちの残された楽園が、このイスラム墓地であったようだ。そんな場所に生きた人間が土足であがって、びっくりさせてしまったかもしれない。
恩師に会いに
実は、シンガポールでは人と会う予定を立てていた。大学2年生から、大学院を卒業するまでの5年間お世話になっていた、プロダクトデザインを専門とする教授だ。今はシンガポールに住まわれているということをfacebookで見聞きしていたので、アポを取っておいたのだ。僕が卒業する年と、先生がご退官される年が一緒で、まさに最後の代の生徒である。3年ぶりくらいの突然の連絡でも、30分も経たずに「是非」と返してくれて、トントン拍子で決まった日程だ。
シンガポールへ無事に到着したことを伝えると、「ところで、今晩の飯の予定は決まっているの?」という連絡が来る。翌日のお昼からご一緒する予定を立てていたけれど、もし今日も会えるならそんなに良いことはない。アジア文明博物館をギリギリまで観て、小ぶりの雨の中、急ぎ足でチャイナタウンへ向かう。待ち合わせぴったりの時間に着く。既に着いている先生が、中で手を振っている。
3年ぶりにあった先生は、少しも変わっていなかった。あの頃と同じように若々しく、豪快にお酒を飲む。注文する前に、「先に言っておくと、ここは僕の奢りなので。たっぷり飲んでください。」という前置きをくれた。こういうところがとてもカッコいい。
空きっ腹にめちゃくちゃ美味しい中華料理を詰め込みながら、卒業してからの3年間のことを話した。コロナ禍の抑圧された時代のことを、思い出話にできることが嬉しかった。先生からは、シンガポールにきた理由を聞く。大学を65歳で退官されたのちに、海外に来て仕事をする、その体力と行動力は、いつまで経っても追いつける気がしない。シンガポールの学生が、僕らの先生に教えを受けている、ということがうまく想像できないけれど、なぜだかとても誇らしい。
「最近のシンガポール人は肥えたね。あの頃と全然違うよ。」シンガポールには、企業勤めの時代から何度も来ており、二十数年前から知っているらしい。体型から見える経済成長だ。また、日本がW杯本戦への出場権を初めて獲得したジョホールバルの歓喜を観に、バスでジョホールバルへ行った話など、シンガポールにまつわる昔話を沢山聞いた。「日本からのツアー客も沢山来ていたけれど、彼らは帰りの時間が決まっていて、延長戦を見られず帰っちゃったんですよ。」先生はいつも真面目な顔をして面白いことを言う。歴史的瞬間を見られずに帰るというのも、それはそれで、笑い話としては良い。
まだ結構料理が残っている状態で突然、もうお腹いっぱいだ、あと全部食べてください、と先生。つい先ほど、まだ何か頼みますか?と言われて二品ほど追加したばかりだというのに。まだ向こう岸に渡っていないのに、先に渡りきった先生に吊り橋を切られたような気分だ。落ち着け、何とかやりくりすれば食べ切れる……。先生の話に気の良い相槌を打ちつつ、お腹を適宜休めながら、満杯のお腹に流し込むようにビールを飲んだ。なんて、贅沢な夜だろう。
ちょっとでも手が止まると、「遠慮しないでいっぱい食べて!」と言う先生。合計7度ほど言われた気がする。そういえば、これ先生の口癖だったよな。
気づいたら、二人でタイガービール(シンガポールの銘柄)の大瓶を5本くらいあけていた。