映画『箱男』感想 あなたは見られるより見たい派?

※多分にネタバレを含んでおりますので注意を

本作で面白いと思ったのは2点。1つは、映画の構造活用したメタフィクショナルな演出だ。箱男の覗き穴=スクリーンに映し出されたフレームであり、最終的に、浅野忠信や永瀬正敏のあまりにこっけいなワチャワチャを、クーラーの効いた映画館(ユーロスペース)という函から見て楽しんでいた箱男だった、というカラクリが明らかになる。あ、なんかエヴァの映画(シンじゃない気持ち悪い方)見たことあるこれ、となったのは私だけであるまい。

但し、そのカラクリの扱い方は、箱男に軍配を上げねばなるまい。一見すると似たような演出なのだが、エヴァが、というか当時病んでたらしい庵野秀明が文脈無視かつヤケクソ気味にオタクの観客に向かって「ほれ、オタクどもこれが君たちの姿やで、きっしょいのぉ、さっさと現実に帰れぼけ」とかましたのに対し、本作は原作が良いせいなのか、ロジカルに「ほれ、あなたたちは箱男である」とつき尽きてくる。はい、私達は箱男です。としか答えようのない筋書きだ。

で、もう一つが、意外なことに、いやこれは全くと言って何一つ期待していなかったのだが、本作のバトルシーンは神だ。妙な迫力というか、現実味があり、今年公開された映画に限定するが、本作のアクションはあのゴジラVSコングや、フュリオサを超えている。序盤の、箱男を付け狙うワッペン乞食との戦いも去ることながら、特筆すべきは、中盤の箱男vs偽箱男のしばき合いである。偽箱男が飛び道具(空気銃)という圧倒的に優位な武器を携えているのに対し、我らが箱男が持つのは、あのブラックジャックだ! 靴下だとか、ダックスフンドみたいに胴の長い犬のぬいぐるみなんかに砂やねじなどを詰めて相手に向かって振り上げて、ブン殴るだけのプリミティブな武器だ。いつだか原作の安倍工房が何かの講演で熱弁していた、アメリカのマフィアなどが好んで使っているらしいあの凶器である。

しかし、ダンボール箱を被ったおっさんたちがひたすら撃たれたり、殴打されて「イッテェ」と叫びながらダンボールごとひっくり返る様を見せられる奇妙な映画体験。個人的に死ぬほど笑ったのは、「葉ちゃん?」と浅野に殺意と嫉妬をむき出しにした永瀬の絶叫だったりする(何のことかさっぱりの人は映画みてください)。ちなみに、この時点でどっちが本物でどっちが偽物なのか、絵面ではさっぱりわからないのが一層笑いを誘う仕組みになっている。人間、むきになって争っている時、ふと客観的な視点に立ち返った時、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうと思う瞬間があるが、映画箱男のバトル鑑賞中の我々の感情は、そういうのに似ている気がする。

見ていて思い出したのは、メタルギアソリッドの段ボール。あれは相当研究されていたのだなぁと。箱被ったおっさんが中腰で中腰でひょこひょこ動く様子に対し、当時中学生だった私は「なんだこの滑稽なゲーム・・・」と驚いたものだった(それから小島監督のゲームのファンになった)。小島監督が安倍文学の大ファンというのはここで話す必要がないくらい有名な話で、箱男のオマージュとして生まれたスネークの段ボールアクションが、本作に逆輸入された気がしているのは私だけだろうか。

ところで、上記の戦闘が起きたきっかけの一つになった、「街に箱男は一人しかいらない」ルールの根拠は何なのか。原作を読みかえて見たもの、それらしい根拠は書かれていなかった。と思う。違ってたらごめん。

勝手に想像してみたのだが、重要なのは箱男の役割である書くという行為につきるのではないかと。箱男(見る側)が複数いることで、当然書かれる事実も複数に増える。それは言ってしまえば、それはデータベースの運用的に言えば重複であり、整合性のないゆゆしき事態なのだ。原作は、箱男のノートに書かれた文章=実は小説そのものだった、という構造も持っている。言ってしまえば、ノートの執筆する権利が誰にあるかによって、小説世界の在り方を決める権利を有する。その馬鹿げた権力争いの中、箱の外に出て、いち早く見られる世界に悠然と脱出した葉ちゃんをいリスペクトしたいと思ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?