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【映画レビュー】異端の鳥 評価:◎

※全文無料で読めます。

※内容はやや過激です。

■東欧の流血地区

1933年のソヴィエト・ウクライナ社会主義共和国では恐るべきことに食人が横行していた。その一例を、『異端の鳥』制作にあたりヴァーツラフ・マルホウル監督が参考にしたという、歴史家ティモシー・スナイダーの著書『ブラッドランド: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』からの引用させて頂く。あまりに酸鼻極める内容ゆえ、ご気分を害される危険があることを予めお断りしておく。

 ハルキウ地方のある村では、数人の女性たちができるかぎりのことをして子供たちのめんどうを見ていた。女性のひとりによれば、「児童養護施設のようなもの」を作ったのだ。子どもたちは哀れな状態だった。
「みんなお腹が膨らんでいました。傷やかさぶたがあちこちでできていて、体が爆発しそうになっていたんです。外へ連れ出してシーツに寝かせると、子どもたちはうめき声をあげていました。ある日のこと、子どもたちが急に静かになったので、どうしたのかと振り返ってみると、ペトルスという名のいちばん幼い子をみんなで食べていたのです。皮膚を剥がして口に運んでいました。ところがペトロスも同じことをしていました。自分の皮膚をひっかいで剥いで、できるだけたくさん食べようとしていたのです。ペトルスの傷に口をあてて血を吸っている子もいました。わたしたちはペトルスをみんなから引き離し、声をあげて泣きました」

 我々の想像などとうてい及ばない地獄が広がっていた。1933年のウクライナで起きた飢饉は、スターリンの手によって実行された人工的、計画的なものだった。1928年から始まった第一次五カ年計画は、ソ連の工業化を教則に推進するための必要な政策でもあり、スターリンの言葉を借りるならば「富農をひとつの階級として抹殺する」ために企図されたともいえる。しかし誰が富農なのか、その線引は曖昧だった。多くのウクライナ農民が強制労働収容所に送られ労働奴隷として掘削作業等に従事されられた。農村部に残された人々もまた恐るべき目にあった。ソヴィエトをはじめ共産圏では農業集団化が次々と進んでいた。ウクライナも例外ではなかった。共産党の活動家たちは、力づくで農地を奪い集団農場に加わせた。しかし当初、その計画にはいくつかの不安要素があった。五カ年計画は言うまでもなく人々を苦しめていたから、人々の当局への不満は増した。当然だろう。当局は国内警備を増強する必要性にかられていた。また集団化は国境地帯の混乱を引き起こしていた。ソヴィエトは日本とポーランドという厄介な国に挟まれており、そうした混乱のすきを突いて手薄になった国境から侵攻される、逃れられないリスクに付きまとわれていたのだった。スターリンといえども、一度はその手を緩めざるをえなかった。
 が、それは国内外の安定化を図り、再出発する目論見だった。1930年に一時的に中断された集団化政策は、その翌年には再始動された。今度は手を緩めることなく、あらゆる手をつかって集団化を推し進めた。見せしめには強制移住や粛清を実行した。やがて、ウクライナ国内の穀物収量をも超える小麦の徴発がはじまった。天候の悪化や害虫の問題、さらには強制移住による人材の流出が決定的となり、ウクライナは不作に見舞われることとなる。かくして農村部には貧窮に苦しむ人々の姿が目立つようになった。スターリンはそんなことを公表する筈もなく、例えその事実を知っていたとしても、それを食い止めることは不可能だった。すでに隣国のポーランドは、ウクライナ国内で「カニバリズム」が習慣となっていることを、現地の外交官や工作員たちから報告を受けていた。しかしソ連と結んだ不可侵条約が足かせとなっていたし、ポーランド国軍も予算削減の煽りを受けていて、実際はスターリンが考えていたほど危険でもなかったのだ。ウクライナ国内ではさらなる締付けが行われ、人がばたばたと死んでいった。餓えた農民たちが食べ物を求めて都市部に流出し溢れかえった。そして、飢餓により食い物がなくなった農村では、猫や犬すら食い尽くした農民たちは、最後には子供に手をかけたのだ。ウクライナが置かれていたのは、尤も弱いものから順に食い物にされていく地獄であった。

ウクライナの飢饉をはじめ、殺戮はアレンジされ東欧中に吹き荒れた。スナイダーはこうした殺戮が実行された東欧の国々を「流血地帯」と自書の中で呼ぶ。流血地帯の殺戮を、スナイダーは5つのフェイズに分けた。①ソ連の上記集団化による飢餓の犠牲、②ソ連国内の大テロル(農民と特定民族の処刑)、③独ソのポーランドへの同時侵攻によるポーランド人の殺戮、④41年、ドイツのソ連侵攻に伴う近隣国の民間人虐殺、⑤ヒトラーとドイツ指導部は包囲したレニングラードで「飢餓作戦」を決行し多くの人を餓死させ、またソヴィエト人捕虜を餓えで殺した。そして「最終解決」として、占領下のユダヤ人大量殺人に着手した。

独ソが作り上げた流血地帯の総犠牲者は約1400万人と言われる(正確な犠牲者数は現在もわかっていない)。しかし、問題なのは数ではない、とスナイダーは警鐘を鳴らす。

今まで「戦争の犠牲者」というあやふやな文脈上でしか語られなかった人々の最期の姿を、スナイダーは詳らかに浮かび上がらせる。そしてつきとめた事実から演繹法的に「大量殺人(スナイダーは、慎重に「ホロコースト」や「ジェノサイド」という言葉を避けている)」を立案し、実行に移した者たち、ヒトラーやスターリン、その他計画に携わった者の心理にすら肉薄していく。その人格を否定せず、同じ人間として何を考えていたかをつきとめる。たとえそれが全く理解し難いものであってもだ。そうでなけば、我々も大量殺人に加担した人間と同じようになってしまう、とスナイダーは説く。

■原作小説『ペインテッド・バード』との相違について

映画『異端の鳥』は、舞台を終戦間近の「東欧のどこか」としている。この舞台の匿名性は徹底されており、人工言語インタースラヴィックが用いられている。そもそも原作の方も舞台のディテールに関しては、明確な描写がされていない。

ポーランド出身の作家、イエジー・コシンスキによる原作小説『ペインテッド・バード』は著者自身が認めた後記によれば、発表と同時に激しいバッシングに晒された。本書は彼の母国では発禁扱いとなった。その反響たるや、凶器を持ったならず者たちが、マンハッタンのコシンスキのアパートに押しかけるに至ったほどなのだ(この事件の顛末は件の本書の後記に詳しい)。それほどまでに人々の怒りを買ったのだ。

それほど憎まれた小説とは果たして一体どんなものなのか。身も蓋もない書き方をすれば、大戦末期の「東欧のどこか」で、ひとりの少年が容赦なく人々から只管弾圧される様が綴られた小説である。少年は虐待されその都度あたらしい庇護者を求め逃げ出し、その先々で再び農民たちは彼を小突き回し、ちょっとしたことで彼を吊し上げる。その連続である。そうした「人食い」たちから逃げ出し、一見まともそうな庇護者に出会っても、農場やその家で奴隷のごとくこき使われ、隙きを見せようものならあっという間に暴力に見舞われ、また夜には飲酒を強要される。また、用済みとなったらドイツ軍の駐屯地に人身御供として突き出される。これは映画版になされた脚色となるのだが、ある男色者の庇護者の手によって少年はレイプされる。つまるところそれは人間として扱われず、虫やおもちゃを手にした子供が度々するようにして、少年は容赦なく踏み潰され、性的虐待を受け、やがて捨てられるのだ。

そして彼を取り巻く存在も時にそうした「人食い」たちの手によって踏み潰され、尊厳を剥ぎ取られ、無残に死んでいく。冒頭、少年に懐いたリスが農村の子供たちに奪われ、無残に目の前で焼き殺されてしまう。映画では逃げ惑う少年が映し出され、腕には白い貂が抱きかかえられているが、前述のリスと同じ運命をたどる。また、『ペインテッド・バード』という原題のきっかけとなる、とある出来事に関わる鳥捕りの男は、己の愛人を農村の女たちに嬲り殺しにされ、絶望して自ら死を選ぶ。

戦時下という非日常においても、人間性はかくもあっさりと消え去ってしまうのか? 原著『ペインテッド・バード』がバッシングの憂き目にあったのは、まさにその点にあった。確かにナチもソ連兵、コサック兵といった暴力装置を有した存在も出てくるが、少年を迫害する首謀者の大半は、普通に暮らす人々なのだから。

標的になった瞬間、容赦なく犠牲になっていく非道のメカニズム。それが独ソ戦における緩衝地帯は言うに及ばず、間違いなく古今東西の戦場はおろか私達の日常の中ですら行われているのではないか。彼の祖国では発禁となり、怒りをかったのは、この問いかけゆえであった。

映画に目を向けてみたい。『異端の鳥』を作り上げるにあたり、主役のペトル・コトラール君はプロの俳優ではなく素人ではあるが、彼の周りを固めるのは、ウド・キア、ハーヴェイ・カイテル、ステラン・ステラスガルドといったそうそうたるヴェテラン達だ。しかしこの起用された俳優たちときたらどうだろう。怪人変人ばかりにタイプキャストされがちおじさんことウド・キアは本作でもその怪人ぶりをいかんなく発揮する。また本作のステラン・スカルスガルドなど、あのお気楽のほほんミュージカル『マンマミーア!』で見せてくれたさわやか笑顔はどこに捨てたのだ、と問いかけたくほどの威圧感と冷徹さを本作で短時間ながらも披露する(まぁこの人も変な役ばっかりしているが)。

私は、悪役面の親父俳優軍団が『異端の鳥』にもたらした貢献について考えている。そして、強面の皴だらけの相貌が持つ説得力に感服するしかない。そう、その相貌のおかげで、この映画は加害者に「暴力」という行為をしっかり還すことができたのだから。

それはこういうことだ。歴史における暴力行為は時に、例えばだが「歴史の必然」という便利な言葉を用いた粗雑な言説によって許されたり黙認されたりことが、しばしば私達の周囲で見受けられないだろうか。実際周りを見渡せば、そうした不穏な空気が醸成されている。

食うや食わずやの状況で頭が狂った人間といえども、ひとりの人間を迫害し、人権を無視し、強姦することは容認されうるだろうか。なにか理由があったにせよ、その辺のユダヤ人の(主人公の少年はユダヤ系だ)の子供を奴隷にして小突き回す人々を、あなたは弁護することは可能だろうか。そうした我々鑑賞者への問いかけの純度を高めるため、『異端の鳥』は加害者たちの暴力性を「そのまま」描くやり方を選択した。彼らの行為に対して注釈や、ましてや弁解など付与されない。何故か。言葉の力によって、行為の重大さを希釈してしまうケースもあるからだ。「ユダヤ人だから仕方なかった」「農村の人々だって困っていた」「弱いからいじめられた、弱いのが悪い」「戦争に犠牲はつきものだ」。私達は、問題から目をそらすため、こうしたレトリックの罠に陥っていないだろうか。

しかしである。そうした都合の良い言葉など本作には存在しない。ただそこにあるのは、明確な暴力性と殺意を秘めた加害者の姿なのである。それを実現するために必要だったのは、何を隠そう俳優たちが歳ともにキャリアとともに培った恐るべき威厳ともいうべきものが刻まれた相貌だった。プロの俳優だからまぁ端正ではある事は否定しがたいが、どこか市井の人々特有の泥臭さをまとっている。

私は映画を見ながら、ふとドイツの写真家アウグスト・ザンダーの途方もない試みを思い出した。彼はドイツ中を駆け回り、人々の姿を撮影した。彼が手掛けたスチールは4万枚にも及んだ。その多くのスチールによって「当時のドイツそのもの」を記録するための長大なカタログを作ろうとしていたのだ。

そして、『異端の鳥』は言うなれば「流血地帯の人々の顔」と名付けられた記録の一部、その再現なのだ。ナチス、ソ連兵、コサック兵(細かいが原作はカルムイク人と表現されている)、そして『流血地帯』に難く根を下ろし暮らす市井の人々の顔こそ、『異端の鳥』の主役なのだ。確かに私達と同時代に生きる俳優たちは、当然現代の俤ともいうべきものを残している。「時代特有の顔」というものは確かに存在する。が、現代の俳優にその「特有の顔」を求めるのはナンセンスだ。あくまでその目的は再現にあるのだ。逆に言えば、誰でもナチに、ソ連兵に、コサックにもなれることを映画は証明してしまっている。結果として、残虐な事実を私達は突きつけられる。制服や御旗の元に誰でも加害者に成りうるということを。

そしてそれは、原作小説では絶対に不可能だった。少なくとも小説という媒体では有り得ないアプローチである。

再び『ペインテッド・バード』に目を向けたい。それは迫害を受け続ける少年の、旅の道中で内面に秘めていたものの「告白」としかいいようの無い文学作品だった。原作未読の方は驚愕されるだろうが、『ペインテッド・バード』は少年の一人称視点による小説だ。戦争孤児の視座によって描かれた文学の点では、アゴタ・クリストフの『悪童日誌』を彷彿とさせる。『悪童日誌』は叙事的で、最小限の無駄のない言葉で構成されている。その反面、『ペインテッド・バード』は叙述的な作品で、内面の豊穣さには舌を巻く。「ぼく」という主語の視点から語られる加害者たちの姿は、残忍である反面諧謔を帯びている。その皮相めいた視線は、自分と同じはずの被害者にすら向けられる。この一節は村で「虹」と渾名される男が、収容所へ輸送中の列車から命からがら逃げてきたユダヤ人の娘をかくまったのはいいが、その日の夜に強姦するシーンだ。その最中、恐らく膣痙攣により「虹」のペニスが抜けなくなってしまう。その様子を、コシンスキは次のように記す。

「虹」のおやじは、娘の股のあいだに両足をこじ入れ、娘の上になっていたのだが、そこから離れようとしていた。彼が体を持ち上げるたび、娘は痛そうに悲鳴をあげた。彼もうなっては悪態をついた。彼はもう一度彼女の股ぐらから体を引き離そうとしたが、どうやら難しかった。うさぎやキツネが罠にかかったみたいに、彼女のなかのふしぎな力が、彼のことをつかまえて離さなかったのだ。

目の前で行われる強姦に対し、罠に捉えられた動物に例える感性を、我々はどう理解したらいいのか。とまれ、少年は隙を見ては学や知恵を獲得していき、自らの言葉で世界を内面で紡いでいく。加害者たちの身勝手な主義主張や要求に苦しみながらも、決して屈せず己を枉げなかった。時に目には目をもってして人食いたちに容赦なく反撃し、時にその復讐としてテロルを企図し、おそらく何十人規模で殺害している。凄惨な体験の前で失語症に陥りながらも、ラストでは自らの力で再び言葉を取り戻す。57年にアメリカに亡命するまで、青春時代をコシンスキは混乱のポーランドで過ごした。その時の経験を多分に反映されているのだろうと思われる。

しかし、その静謐で美しい幕引きは、映画の『異端の鳥』には存在しない。映画はあくまで周囲の加害者のことを目的としているからだ。少年の救済はラストで一応は描かれる、が、それはどこか添え物のような扱いである。同様に、原作における少年が持つあの豊穣な語りもまた、映画では割かれている。原作が少年の語りを基軸にして構成された内的な文学だとすれば、『異端の鳥』は少年を取り巻く加害者たちの姿を遍く照らし出し、彼らの世界そのものを描いた作品なのだ。

35ミリフィルム、シネマスコープの広い画角で撮影されたモノクロームの映像が、この加害者たちの描写に一層凄みを与えているのは論を俟たないだろう。もしあのウド・キアの頬に赤みが指していたら台無しだったろうと思う。人の顔の上に浮かぶ色彩もまた事実を希釈するような効果があるのかもしれない。俳優陣の目元や頬に刻まれた皺の一本一本に沈む影が、まるで隈取のような異様さを呈している。何度も書いているが、それは本当に恐ろしい。ある意味本作の売りのように喧伝されるセックスシーンやゴアシーンよりも、である。

最後に、少年やその他の人々を含む全ての風景についても申し上げたい。東欧の四季に富んだ林や農村や湖、それらは広い画角の中でぜいたくに映し出され、恰も一服の絵画のようで、一見すれば美しい。が、それらは少年や人々を決して救ってはくれないのだ。少年はそうした沈黙を守る風景に捉えられ、逃げ出すことも敵わない。ここまでくればおわかりだろう。それは物言わぬ傍観者の暗喩に他ならない。昔も今も、そうした人々は多数いることを静かに物語っている。

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