もうひとりの自分。

付き詰まる所、僕の人生は「もうひとりの自分」との会話なのだと思う。

一時期、解離性同一性障害を疑ったこともあるけれど、DMS-4(当時の米国精神医学診断マニュアル)等を読んでみたり、専門家の知人と話をしてみたりする上で、俗にいう「二重人格」ではなく、むしろ防衛本能的な身体の反応だと捉えるようになった。とは言え、一人の僕は前に進みたく、でも同時に立ち止まらざるを得ない中で、それはやっぱり「もうひとりの自分」と表現することが一番自然で、これもまた悩み抜く中で、「守ってくれるもうひとりの自分」と前向きに捉えるようになった。ほぼ無理やりなポジティブ思考だけれど。

この、「もうひとりの自分」。僕は理解をしやすいように人格を造影させているのだけど、端的に言ってしまえば、「うつ病」だ。もう少し丁寧に、あるいは正確に僕の気持ちを書くならば、「うつ病を抱えたもうひとりの自分」だ。

僕はこの、「もうひとりの自分」が本当に嫌いだった。完全悪で絶対的な敵だと思って、どうやったら排除できるかということばかりを考えてきた。でも、頑張れば頑張る程、そのもうひとりの自分が大きくなる。強くなる。

ある時、ふと、「もうひとりの自分はもしかしたら味方なんじゃないか?」と思うようになり、なんとか一緒に歩く道を模索しだした。それが僕の人生の転換期であり、今のなんだかんだで平穏な日々の土台だ。


もうひとりの自分。僕にとっては、うつ病。


誰しも、そんな「誰か」を感じることはあると思う。自分を客観的に見ることも、ふと白昼夢の中で自分を見つけることも、何かその「もうひとりの自分」の持つ影響力かもしれない。

付き詰まる所。僕の人生は、この「もうひとりの僕」との会話で、その会話を表現することなんだろうと思う。特定の誰かに聞かせるわけではないけれど、それでも誰かに聞いて欲しい話。不思議だらけの人生を、どこかで一つの作品とする為に。もうひとりの自分の力を借りて。

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