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止まった時間と刺し子をもう一度。
ここ最近の日本語の配信で、「日本に帰るのが怖い。楽しみだし、嬉しいんだけど、怖い。」と言葉にしています。同じように日本出身で、アメリカに移住された方から「私も似たような感情がある」と、嬉しい同感のお言葉も頂いて。私の恐怖の一因は、前回の投稿で書いたようなもので、それはある程度具体的に描写できるまでには自分と向き合ってきたのだけれど、でもそれだけじゃ説明しきれないような「怖さ」があるのも事実で。なぜ「怖いのか」を、少し客観的に、あまり自分を入れないで考えてみようと思うのです。
ムラから出るという疎外感
話をしてから、ずっと頭の片隅にある疑問で、「結局何が怖いんだよ」と自分にツッコミを入れたくなる程、言葉にできない感情なのですが、無理やり言葉を当てるとすると「疎外感」になるのかなと思ったり。「属していない感覚」というか、「いるんだけどいない」というか、「もう一員じゃないんだ…」とでもいうような被害妄想にも似た思いだったりします。ただ、完全に妄想かというとそれも違っていて、実際に日本という国から違う国に生活の軸足を移した瞬間に、もっと具体的にいうと住民票を抜いたことを実感した時に、「日本ムラ」という共同体から出てしまったことは、結構大きいことなように思えていて。
国籍も日本だし、100%日本人だと心から思っているのだけど、でも「何か違う」という、自分が日本人だからこそ感じるこの微妙な空気感が、疎外感に繋がっているのかもしれません。
本来であれば、日本に滞在中に、この言葉にならない怖さと向き合う時間を作れたら良いのですが、日本に入って油断をしようものなら、具体的な恐怖を伴う何かが前頭葉あたりで反復横跳びをしているので、やっぱり「忙しくして考えない」のが今の所の私の立ち位置です。
日本から出た所で時間が止まる
「そんなアホな…」とツッコミを頂くかもしれませんが、日本国内の私は30歳に逆戻りするような気がします。実態は41歳の、体の衰えを感じるようになった運動不足のおっさんなのですが、その実像はアメリカで作られたものなので、日本に帰ると最後の具体的な実体験をした瞬間まで一気に巻き戻される感覚に陥るのです。逆に言えば、つまりは「日本から出た所で時間が止まっている」だろうと。
この感覚は、もっと頻繁に日本に帰るようになれば変化して、日本でも年相応の立ち振舞いができるようになるのかもしれませんが、前回の日本帰国時の自分のキャラが10年前の時から更新されていなくて、心底吃驚したのです。具体的に言うと、私はアメリカでは「静かな人・言葉に重みがある感じの年上の人(本当は英語が出てこないだけなことも多々あるけれど)」と言うキャラでいくのが一般的です。どんなパーティに行ってもワイワイと騒ぐことはまずありません。それが10年間の空白を吹っ飛ばして、日本に帰った途端に「後輩キャラ(他人様を立てる・汚れ役も気にしない)」に戻ったから、「時間が止まる」と言うアホみたいな考え方にもある程度の信憑性はあるのではと思うのです。
針をもう一度動かすと、刺し子も動くのか
今回、東京の月島で開催する刺し子の展示会は、2014年に母親が先頭に立って再開した刺し子です。子育て専業主夫という、まぁ大変だった時期に、片手間ながら手伝って、少しずつ積み重ねてきた「二ツ谷恵子」の刺し子です。徐々に刺し子が英語圏で流行になるに連れ、「教える」という角度から刺し子と向き合い、試行錯誤を繰り返しながら2017年から始まったのが「二ツ谷淳」の刺し子です。
この両方の刺し子とは違う、2013年の10月~12月の間に止めてしまった(動くことを諦めてしまった)、「私達の刺し子」が存在します。この止まってしまった刺し子を動かすことは正しいことなのか。はたまたそんなことが可能なのか。まだ少しでも残滓は存在するのか…など、わからないことばかりなのですが、この針は「動かそうと思わないと動かないもの」であることは間違いなく、また動かす為には日本での私の時間も進めなければいけないんだろうと思っています。
止まった時間。止まってしまった刺し子。もう一度…動かすことが正しいこと(あるいは良いこと)なのかは全くわからないのですが、その見極めも含めて、日本での娘との時間を大切にしようと思います。