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いとしのエリー/サザンオールスターズ(あつしのプレイリスト③)

1979年3月25日(日)発売。
作詞:桑田佳祐 作曲:桑田佳祐 編曲:サザンオールスターズ/管・弦編曲:新田一郎

 1978年6月25日(日)、「勝手にシンドバッド」でデビューしたサザンオールスターズ。セカンドシングルは「気分しだいで責めないで」だった。コミカルでアップテンポな曲が2曲続いた後に放たれたサードシングルが「いとしのエリー」である。前2作や当時新興芸能事務所だったアミューズのテレビを中心としたメディアへの大量露出作戦の影響で「コミックバンド」だと思われていた(今でもそう思われているかも…)サザンオールスターズが一気に「実力派バンド」であると認知されるきっかけとなった曲である。だが、そんな「世間の評価」のブレに一番当惑していたのはサザンオールスターズのメンバーだったかもしれない。以降、彼らは「世間が求めるサザン」と「自分達がやりたい音楽」の間で揺れながら曲作りを続ける事になる。

 これについて、桑田佳祐は言う。

 確かに言われたよね。「シングルってのは三枚サイクルで出すのが常識なんだ」とか。だから「勝手にシンドバッド」「気分しだいで責めないで」ときたら、「気分しだいでシンドバッド」かなんか出すのが常識なんだって。だから「エリー」じゃなくて「思い過ごしも恋のうち」をシングルに、とかね。そういう声あったもん、やっぱり。(桑田佳祐『ロックの子』)

 また、別のインタビューで桑田はこう言っている。

 そうこうして、芸能界最前線コミックバンドとして、もしかしたらこのまま行っちゃうんだろうかって不安が増してきた頃、“いとしのエリー”が出来たの。だから凄く良かったよね。相当精神落ちこんでいたからね、「もうやめようぜ」みたいなところまで行ってたし。メンバーは「もう一曲だけやってみようっていう時に、極端な話、“エリー”が風向きを変えたのは確かだった。だから単純なもんだなとも思ったよね。(桑田佳祐『ブルー・ノート・スケール』)


 また、バンドメンバーである原由子との関係性について、桑田はこう言っている。

 “いとしのエリー”はもともと原坊に対して「今までごめんなさい」って言うつもりで書こうと思ってたんで、マジメなのっていうか、それでバラードにしたのね。作って、原坊に聴かせたら、「いい」って言ってくれたんでね。気持ちがキレイになってた時の曲だから、間違いなかったんじゃないかな。神様が見ていたと言うか(笑)。もっとも、原坊は「よくない」って言った事がなくて、何でも「いい」って言うんだけど(笑)。俺の性格をよく見抜いてるなと思うよ。とにかくあいつにはいつでも頭があがらなかった。(桑田佳祐『ブルー・ノート・スケール』)

 この件について、今では桑田の妻である原由子はこう言う。少し長いが引用する。

話がある」と言って、桑田が私のアパートに来た。
「好きな人ができちゃったんだ」
 桑田は幼なじみの人に恋していたのだ。私は逆にほっとしたような気がした。もう何も恐れることはないのだ。
 笑顔でいるつもりだった。だが、勝手に涙が出てきた。桑田も泣いていた。
「今まで本当にありがと…」
 本当にそういう気持ちしかわいてこなかった。
「明日も仕事があるから迎えに行くけど…おまえ、ちゃんと俺の助手席に乗るんだぞ…」
 桑田はそう言ってくれた。
「明日からも…ニコニコしてなきゃダメだぞ」
 二人とも涙が止まらなかった。
 夜も更け、私たちは最後に握手して別れた。一人になっても涙は止まらなかった。夜中に何度も桑田から電話がかかってきた。
「…大丈夫か?」
「うん…大丈夫だから、元気出して」
 電話越しに励まし合い、泣くばかりであった。
 朝になり、桑田が迎えに来てくれたときには、二人ともまぶたがパンパンに腫れ上がっていた。顔を見るなり、桑田が突然言った。
「結婚しよう!」
「…え?」
「ずっと一緒にいよう!」
 恥ずかしながら、結局別れられなかったのだ。
 その数日後。二月のある晩、「曲ができたよ!」と桑田が電話をかけてきた。電話口から聞こえてきたのは、スローバラードだった。
「いい曲だね」
 心からそう思った。「いとしのエリー」だった。
(原由子『娘心にブルースを』)

 「いとしのエリー」はサザンオールスターズの物語を大きく書き換えたが、桑田佳祐と原由子の物語をも大きく書き換えたようだ。

 また「エリー」の名前のモデルは桑田の実姉の岩本えり子ではないかと言われていたが、当の岩本はこう言っている。

いとしのエリー』というラブソングは弟たちの第三ヒット曲だった。エリーのモデルが誰なのか、ファンの間ではちょっとした話題だったらしい。しかし私にはどうでもいいことだった。(岩本えり子『エリー©ー茅ヶ崎の海が好き。』)

 では、「いとしのエリー」発売の前後はどのような状況であったか?
 
 (著者注:1979年2月)日本武道館で行われたFM東京『音楽夜話』10周年特別番組の公開録音にサザンは井上陽水、喜納昌吉らと共に出演する。このとき初めて「エリー」を演奏。が、「新曲です」と言って演奏を始めた途端、それまで沸きに沸いていた会場が一瞬にしてシラーッ。地味な曲だけに仕方ないが、メンバー、スタッフ一同、やっぱりダメか…と、ガックリ肩を落としたという。(桑田佳祐『ロックの子』)

 だが、時を経ずして状況は一変する。

 シングル「いとしのエリー」は、予想通り、なかなか売り上げが上がらなかったが、徐々にこの美しいメロディが人々の心に浸透。ようやく7月に入って(著者注:発売は3月25日)火がつきはじめた。
 当初の悲観的観測をくつがえし、『ザ・ベストテン』1位、オリコン2位にまで達する大ヒット
。(桑田佳祐『ロックの子』)

 ガラスのように儚く美しいメロディに率直かつ愛に満ちた歌詞が乗って、「いとしのエリー」は現代でも歌い継がれる名曲となった。また、1983年にはTBSドラマ『ふぞろいの林檎たち』(山田太一脚本)の主題歌に採用された。更に1989年にはレイ・チャールズが「Ellie My Love」としてカバーしている。
 サザンオールスターズにとって、「勝手にシンドバッド」による衝撃的デビューが第一のターニングポイントとするならば、この「いとしのエリー」リリースは第二のターニングポイントと言えよう。その後、サザンはいくつものターニングポイントを経て押しも押されもせぬメガバンドへと成長してゆく。

 サザンオールスターズが「いとしのエリー」を演奏する時、終盤桑田佳祐は思い入れたっぷりに間を開けてから、

 エーリィー!

 と絶叫する。その叫びは今でも私の心をとらえて離さない。

https://youtu.be/htMGeeLObNM?si=nCDJPuiCwXS2OZVq

 

私がライブで聴いた『いとしのエリー』】

1995年】

サザンオールスターズ・スーパー・ライブ・イン・横浜「ホタル・カリフォルニア」

8月5日(土)横浜みなとみらい21臨港パーク

【1998年】

1998夏 サザンオールスターズ スーパーライブin 渚園『モロ出し祭り~過剰サービスに鰻(ウナギ)はネットリ父(チチ)ウットリ~』

8月8日(土)静岡県浜名湖畔弁天島海浜公園渚園

【1999年】

サザンオールスターズ 年越しライブ 1999 『晴れ着 DE ポン』

12月30日(木)31日(金)横浜アリーナ

【2000年】

サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ

8月19日(土)茅ヶ崎公園野球場

【2008年】

サザンオールスターズ「真夏の大感謝祭」30周年記念LIVE 

8月16日(土)日産スタジアム

【2013年】

サザンオールスターズ SUPER SUMMER LIVE 2013「灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!」

8月10日(土)日産スタジアム

【2018年】

ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018

8月12日(日)国営ひたち海浜公園 GRASS STAGE

【2023年】

サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023

10月1日(土)茅ヶ崎公園野球場




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